60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

復活書房で一括処分

部屋の片付けの流れで、本を売りに行きました。
やっぱり頭と心のどこかで、本は精神財だと思っているので
単に故紙として再利用されるよりは、次の読者に渡ってほしい‥。


でもまぁ、最近のコンビニ的、ファストフード的古書店
すがすがしいまでに、実に物質財として買い取ってくれます。
メディア論の文脈で、メディアのマテリアルとしての側面を‥
といった議論を最近よく見かけますが、まぁまさにその通り。


値段がつかなかったものも、引き取ってもらいました。
どうせ回収業者行きなんでしょうが、自分の手を汚すのが嫌なので。


(財)吉田秀雄記念事業財団の出している『AD STUDIES』21に、
「昭和前期の広告界」という文章を載せていますので、ここにも貼っておきます。 




「新しく移った小さな印刷所の主人は、はじめて基礎から版下のかき方を教えてくれた。同時に広告図案というものに初めて目がさめた。私は油墨で版下をかくよりも、泥絵具などを使って俗に「スケッチ」といっている原画を描くのがずっと楽しかった。/今でこそ広告デザインの雑誌は多いし、外国の専門雑誌をふんだんに見ることができるが、その頃の参考書といえば、誠文堂から出ている「広告界」だけだった。この雑誌が私の図案の勉強だった」(松本清張『半生の記』新潮文庫、1970年、43頁)

広告業界。今この言葉を聞いて、まず多くの人がイメージするのは、スーツ姿の広告会社の社員、もしくはラフなかっこうの広告関連のクリエイターたちであろうし、その舞台は東京港区や中央区界隈であろう。
それらの人々を中心に、企業の宣伝部の社員や民放局などの広告担当者、広告関連の書籍や雑誌の出版関係者、それに寄稿する研究者・評論家やマーケッター、市場調査などのシンクタンクや研究所、最近ではネット広告などの起業家たち、さらには予備軍としての美大・芸大生、専門学校生、大学の広告研究会‥。
ではこうした「広告界」は、いつ頃その姿を現したのであろうか。当然のことながら大正期以前にも広告は存在し、広告代理店や業界団体も誕生していた。たとえば、明治末にはすでに広告倶楽部という団体が、『広告界』という名で会報誌を出している(渋谷重光『語りつぐ昭和広告証言史』宣伝会議、1978年)。しかし、広告という業種・業態が広く認識可能なものとなり、ある職能を持つ人々のまとまりとして、強く意識されるようになってきたのは昭和期以降のことであろう。そして、その「広告界」を実感しうる装置としてもっとも重要だったのが、冒頭の引用文中にある『広告界』であった。小倉の町の片隅で石版職人の見習いをしながら、広告デザインを覚えようとしていた清張青年にとって、月刊誌『広告界』(1926〜41年)はアルファであり、オメガであったのだ。
もちろん、『広告界』のみが商業美術ないし広告デザインの水準を押し上げたわけではない。関西を中心とした『プレスアルト』(1926〜44年、プレスアルト研究会)や、浜田増治の『現代商業美術全集』(1928〜30年、アルス)の存在は見逃せない(拙稿「プロパガンディストたちの読書空間」吉見俊哉編『一九三〇年代のメディアと身体』青弓社、2002年)。だが、数多くの広告制作者がひしめきあい、多くのグループが離散集合を繰り返し、新たな人材を世に送り出す養成・教育機関も立地していた東京・関西以外に住むデザイナーたちにとって、『広告界』は唯一のバイブルであり、中央ないし世界の最先端の動向を覗き見るための「葦の髄」であった。
また同誌は、広告制作者のみを対象としていたわけではない。その前身誌である『広告と陳列』から引き継いだ、店頭装飾などのハウ・トゥー頁は多いものの、徐々に新聞・雑誌広告やポスター関連記事の比重が拡大していき、やがて広告や商学の研究者・評論家、企業や媒体社の広告担当者などの寄稿が増えるなど、いわば戦前期においてまさしく「アド・ワールド全般へのポータル・サイト」として機能していたのである。本稿ではこの『広告界』を素材として、戦前期の日本において広告産業が離陸しようとした、まさにその瞬間の諸相にふれていきたい。

【1】『広告界』の背景
『広告界』の奥付にある出版社名は、誠文堂商店界社、誠文堂広告界社、誠文堂、誠文堂新光社と転々としているが、もともと商店主や企業経営者向けの『商店界』(1920〜93年、当初は商店界社刊)がその母体であった点は注目に値する。前述の『プレスアルト』や『現代商業美術全集』が、グラフィック・デザイナーなどを中心とした、どちらかと言えば「アート系読者」よりの内容であったのに対し、『広告界』は「ビジネス系読者」をも視野に入れていたのである。
たとえば、1929年7月号の「青分銅子」の筆名による記事「新聞広告界の暗流 十三段裏面史――新聞社が一頁十二段組を十三段組にするだけに是だけの騒動が起こつた」は、一面十三段への移行を進める新聞社に対して、「1、以前の一行と其の後の一行とでは字数は同じ十五字でも大きさが違ふ。夫なのに新聞社は従前通の料金を出せと主張するから広告主は反対する/2、東西四社(東京日々・大阪毎日・東京朝日・大阪朝日)が十三段になると、一流広告主は広告紙型を作るのに十三段のものを作るだろうから、他社では、そのため広告を貰ふ機会が少くなる。/3、活字が小さくなるので視力を痛める。/4、日頃の四社に対する反感があるので反対のために反対する」といった軋轢が生じたことを描き出している。普段は商売敵でもある以上、なかなか一枚岩というわけにはいかない広告主側、特に東京の業界団体と大阪のそれとの間の反目や疑心暗鬼、策動する大手「広告取次業者」、広告主の顔色を瀬踏みしながら十三段制に追従しようとする新聞各紙…。そうした業界模様が手に取るように伝わってくる。
もちろん、こうした広告ビジネス関連の記事が、『広告界』のすべてではない。巻頭写真ページには、内外の最新広告の事例やウィンドー・ディスプレイの実例が掲載されており、森永製菓にて広告制作に携わった経歴を持つ室田庫造(久良三)編集長のもと、読者が投稿した実作品への「誌上添削」の頁なども充実していた。やはり『広告界』は、まず第一に、清張青年のような「図案家」「画工」たちにとっての必読誌であったのだ。中でもとりわけ有用だったと思われるのは、毎号の参考図版の頁である。そこには読者が広告制作にそのまま利用しうる素材サンプルが多数掲載されており、時には編集部から例示されるカット・文字・文案などが、そっくりそのまま流用されることもあったものと思われる。
再度『半生の記』から引用すると、「小倉に洒落た洋菓子店が開店し、その包紙を高名な東京の画家が描くということになった。…東京の画家は骨董屋の図録から、陶器か何かの模様をピックアップして、こういうやつを描いて適当に包紙の模様のように散らして下さい、と私に命じた。私はなんだと思った。ただ図録の絵をとって配合するだけではないか。…当時、キュウビズムか何かで評判の二科の新進作家だった」(55頁)。今日のコピーライト観からすると、やや違和感を覚えざるを得ないが、全国的な広告技術の水準向上には「完コピ」の時期も不可欠であり、その元ネタをもっともよく提供したのが『広告界』であったのだろう。
電通一社の数字ではあるが、1925年の5月期決算での総収入は約83万円、11月期は約86万円であったのに対し、1935年5月期には118万円、11月期には129万円を記録している(『虹をかける者よ(電通90年史)』電通、1991年、91頁)。恐慌の中、着実に広告産業は成長を続け、『広告界』にしても各種図版が充実し、その束が最も分厚かったのは、目分量ではあるが35〜37年頃だったと思われる。

【2】広告界と『広告界』
さまざまな広告関連の特集はもちろん、『広告界』がもっともよく「広告界を可視化した」点は、その雑報の充実ぶりにある。「広告界展望」「広告界」「広告界ニウス」「広告界展望台」「広告界半畳記」「広告界視聴」「広告界万華鏡」「広告社会相」「アド・セクション」等々、コーナーの名称は転々としながらも、同誌は一貫して業界全般の動向をフォローしていった。
たとえば1929年7月号「広告界」には、「日本広告倶楽部も愈々陣容が整つたやうである。…倶楽部の書記長には、創立の世話役として知られた東京日々新聞広告部の荒木丈太郎氏が同社を辞して専心実務を担当の予定」とある一方、「猶創立総会以前より波多海蔵氏一派の弥生会は倶楽部幹部数氏と面白からぬ感情経緯ありて、今後の出処其の他は最も興味あるとされてゐる」との風聞も伝えている。そして「倶楽部の成立とともに大阪広告協会が主唱して各地広告関係団体を動かし大同団結を提言し、今秋東西広告大会を開催の計画している」「大阪広告協会では「十年後の広告界」なる論文を懸賞募集」とあり、他にも「近藤利兵衛商店の蜂葡萄酒新聞広告懸賞図案」の審査結果発表や「正路喜社の商品広告組合せ図案懸賞募集あり」といった告知、東京13紙の広告掲載行数の順位、さらには「淋病薬で一時有田式新聞広告を連発した小川歩哨堂が売上不振から広告料三萬円立替の広告社を引掛けた」といった醜聞に至るまで、盛りだくさんの内容となっている。
また同誌の「人事往来」「広告界ごしつぷ」「アドマン・ゴシツプ」「会と人の動き」「広告人いろは巡礼」「広告人消息」「広告人動静」などのコーナーは、業界の人脈図を速報し続けていた。たとえば1929年3月号「広告界ごしつぷ」には、「赤玉ポートワインやスモカ歯磨、トリスソース、ヘルメスウヰスキーで有名な壽屋がカスケードビール工場を買収したのは昨年の暮のこと、さてビールの名称は何と出る、広告はどんな面相で、と一斉に注目、片岡氏も広告運のいゝ男やな」とあり、1931年1月号「広告人動静」には、「今泉武治氏 明治大学広告研究会の同氏は昨年十一月より森永製菓広告部に就職された」とある。いまだにその名を語り継がれる片岡敏郎はもとより、当時は一学生に過ぎなかった今泉武治(後に東方社、報道技術研究会、戦後はミツワ石鹸の丸見屋や博報堂など)にいたるまで、ちゃんとスペースが割かれていたのである。さらに「広告界レコード」のコーナーは、会合や展覧会の様子を伝える写真を掲載しており、まさしく広告界がヴィジュアライズされていた。

【3】『広告界』と世界の広告界
『広告界』は、国内の動静を示すだけではなく、多くの記事や「世界広告スナツプ」「海外広告界ニユース」などのコーナーによって、欧米の広告ビジネスやデザインの動きをリアル・タイムで伝えていた。たとえば1931年9月号「海外広告ニユース」には、「アメリカのデホレスト・ラヂオ会社ではテレヴイジヨンの放送を近く開始すべく準備中である。…広告の放送時代近からん」、「ニユーヨークの空中広告社は乗合自動車や馬車の中に広告がある以上、飛行機の中にも広告カードがあつて然べきであると、この広告を取つた」、「四十億燭光の電気で、雲またはニユーヨーク市の摩天楼へ広告を投射してゐる」といったコラムが並んでいる。また1933年5月号の緑観洞史「広告主は広告代理業者と提携すべきか」は、「英国で発行されてゐる広告雑誌アドバタイジング・ウオールド」の記事の翻訳を題材に、広告キャンペーンの企画立案・制作実施にいたるまで一貫して請け負える体制を整えた、海外の先進的なアド・エージェンシーの事例を紹介し、広告取次業者が単に「広告代理本位を旨として一行でも他社より多くの広告を取扱ふために策を弄してゐる」日本の現状を憂いている。
広告表現の面で言えば、1930年1月号の室田久良三「一九三〇年の広告界はどう動く」に、「(ポスターの)様式はどう云つたものが流行するだらうか? 大正九年頃表現派が起り、続いて構成派が後を襲ひ未だに構成派の流行は跡を断たないやであるが、この構成派に代わつて流行するのはフランスの画壇、文壇、詩壇に昨年来流行の兆あるシル・レアリズムが日本の画壇に流行する以上に広告美術界にも流行して広告図案にとつて最も良きアトラクチーブな様式として作家の創作が期待される。/この他にポスターの変形としてアメリカに流行してゐるカツトアウト(衝立式ポスター)も種々と実際的に使用されてゐるので、これも今年の流行が予想される」とある。
国際的な構成主義デザイン運動は、日本においてはそれまでの美人画ポスターなどの写生に対する、「単化」の主張として浮上してきていた。『広告界』にも、1931年8月号に西川鋼蔵「単化図案製造株式会社:新しい広告美術の運動」という記事、ないし制作実例――写真の人物像をいかにシンプリファイし、大量印刷時代に対応したイラストに仕立てるかを図解――が登場している。曰く「写実美人画ポスターは個性を出す余地がない、而し我等の単化図案は個性による強い広告美術の出現を熱望して居る。徒に独逸張りだ、何々張りだと模倣単化時代を清算せよ、われわれの単化時代は我々の手で!」。
1931年10月号には、当時日本においても黒人のシルエットというモチーフが商標等で流行し、それは「ヂヤズがアメリカを席捲すると同様にフランスのレビユー界」でも黒人のエンタテインナーが活躍した影響だと指摘する記事が掲載されており、またその頃、「ミツキヰマウス」がさまざまな商品広告の狂言回しとして躍動する「連載漫画小広告試案」(室田庫造演出)が、『広告界』誌上でシリーズ化されたりもしている。これまた今日の著作権や人権をめぐる感覚からすれば、やや違和感を覚えざるを得ない内容のものではあるが、これらの事例は少なくとも30年代前半までは日本の広告界は海外のそれへと直結しており、『広告界』がその触媒として機能していたことの証左であろう。

【4】『広告界』の最後
1931年1月号の長岡逸郎「百年後の広告界(二〇三〇年の広告はどうなるか)」は、ロンドンの広告展覧会の参観報告であり、「エツチ・ヂー・ウエルズの科学小説にでも出て来そうな二〇三〇年度の広告物には目のくらむ様なものがあつた」という。たとえばあるポスターに描かれた未来社会では、「その頃テレヴイジヨンは一般化してゐて、人は世界共通の服を着てゐてその服にはテレヴイジヨンのセツトが附着してゐる。即ち耳のふちと肩には軽金属のセツトがある。そこでスヰツチをその番号に合せば、何でも見ることが出来るのである。そうして又発声装置にもなつてゐて声を聞くことも出来るのである。丁度その日にニユー・ヨークで歌を放送するプリマドンナはその頃のすべての女がそうである様に髪は坊主にしてゐる(左上は発明者P・一〇八六号)。…巨大な自動電焼が間断なくあたりを照らしてゐる。空中タクシーが「上空道路」を飛び歩いて」おり、そのポスター上には「すべてが単化され、あらゆる装飾は無用のものとなり、文字もこんなふうに変化してしまう」がゆえに、何語ともつかない奇妙な文字が躍っている。
こうした夢物語の一方で、1932年5月号の武会利仁「世相の反映広告宣伝のフアシヨ化」には、「昨年十二月来の満州上海事変で…広告界にも、何でも国家的なニユースバリユを見逃すべきや、である。殊に廟行鎮の爆弾三勇士の歴史的出現によつて、いやが上にもフアツシヨ熱は激昂して来た」とあり、兵士の姿がさまざまな広告図案に用いられていることを紹介している。『広告界』誌の英文表記は、当初‘The Publicity World’‘Advertising Commercial-art Show-window’‘Advertising Art Monthly’などが用いられていたが、1940年8月号からは‘Industrial Art and Propaganda’ないし「宣伝技術と産業美術の研究誌」となり、翌年からは「国家宣伝・生産美術誌」へと変更を余儀なくされていった。新聞広告総行数(東京紙)も、1936年の年間4,536万行から41年の2,072万行へとやせ細り(前掲『虹をかける者よ』、111頁)、広告代理店の統廃合が進み、広告制作者の転業・出征も相次いだ(拙著『「撃ちてし止まむ」:太平洋戦争と広告の技術者たち』講談社、1998年)。
1930年代後半、中山太陽堂広告部長に転身した室田庫造の後を継いだ宮山峻は、1941年1月号「今年度編輯方針に就て」において、「「広告界」は最初小売商店の一ウィンドー装飾の参考書として呱々の声をあげたとのことである。そしてこれを指導し、育て又自らも太つてきた。今日ではもはや商店のウィンドーとは、凡そかけ離れた存在となつてしまつた」ため、誌面の内容が「実際のサンプル的な役に立たぬといふ理由で攻撃を受けたことが、一番多かつた」が、宮山としては読者に対して「迎合的な、そして独善的な態度を務めて避けた」と語っている。要するに、編集部が示した見本をただ模倣するだけの存在として読者を見下し、それに迎合することも、読者のニーズを無視した高踏的な誌面づくりに陥ることも避け、宮山の方針としては読者とともに考え、ともに創るという姿勢を貫いたというのである。宮山自身も長崎高商(現長崎大学)を卒業後、折からの就職難で悶々していたところ、長崎市内の書店で手にした雑誌『広告界』に将来を見出し、闇雲に上京した一読者であったという。それから十数年を経て宮山は編集長として、「広告は算盤玉で弾きだされねば、広告とは思われぬ」という「我利々々の追求に追ひ込まれ」てきたが、「公衆を指導し裨益する」という「広告自体の持つ、公益的な本道」に立ち返り、それを率先して「実行に移す業者の新しい方向への動きが、一人でも多く、一日でも早いことを切望する」と年頭および巻頭の辞を述べるにいたる。
同号からは「宣伝回覧板」というコーナーが始まり、献納広告・国策宣伝・対外宣伝などに関する寸評が並んでいる。広告界は、いよいよ「宣伝界」へと模様がえしていくことになる。しかし、濃霧や嵐の中を「愛機――私はこの雑誌をかう呼ぶ――は懸命に飛んだ、目標は掴んだ。今こそ飛ばねばならぬ。突破せねばならぬのだ。然しガソリンは燃え尽きた」という宮山の一文を残し、太平洋戦争勃発と時を同じくして、『広告界』は1941年12月号で休刊している。それは同時に、日本に芽生えた「広告界」が、全面的な開花の目前で足踏みを強いられたことを意味している。

【5】戦後の広告界
戦後広告史に関しては、ここまでの登場人物に関してのみ簡単にふれておきたい。
言わずもがなのことだが、松本清張は小倉での新聞広告意匠係の仕事に生き甲斐を見出せず、新たな世界へと転身していった。だがそれ以外の広告人は、おおむね戦前のキャリアを活かす道を模索していくことになる。 
たとえば誠文堂の旗艦誌『商店界』編集長であった倉本長治は、戦後『商業界』の主幹となり、長く斯界の権威として活躍した(倉本初夫『倉本長治:昭和の石田梅岩と言われた男』商業界、2005年)。室田庫造は、その著書『広告はアイデアだ』(同文館、1958年)や『広告文案の技術』(同文館、1959年)などで健筆をふるい続けた。1933年1月号『広告界』の記事「明日の広告政策立案」等で、広告の企画・立案のレヴェルを上げるための、また優れたアイディアに正当な対価が払われるようになるための方策を論じ続けた室田は、著書の冒頭に「アイデアとは 心の機械を動かすために 必要なガソリン点火の 精神的な火花である」という箴言を掲げ、戦後も「アイデア」の重要性を訴え続けた。一方、戦争によって用紙という「ガソリン」を奪われた宮山峻は、1953年に『アイデア』(誠文堂新光社)を創刊していち早く海外の広告・デザイン事情を紹介し、また「広告とマーケティング」を標榜した『ブレーン』(1961年〜、誠文堂新光社、現在は宣伝会議)では、海外の業界や研究の動向などを伝え続けた。
しかし戦後の広告界は、こうした専門誌・業界誌以上に、大手広告代理店や民放キー局(およびそれらを中心した業界団体)を基軸に展開していくことになる(拙稿「戦後広告史に関する諸問題:画期としての1951年」『関西学院大学社会学部紀要』90、2001年、同「広告賞の政治学津金澤聰廣編『戦後日本のメディア・イベント:1945−1960年』世界思想社、2002年)。そして、関東大震災後から戦前期にかけて、東京のそれと拮抗するだけの力を有した関西広告界は、その地盤を沈下させていく(拙稿「一九二〇年代三〇年代の広告」有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』世界思想社、2004年)。『広告界』でも再三とり上げられ、多大な期待を込めて語られていた「ラヂオ」や「テレヴイジヨン」での広告の実現は、皮肉なことに活字メディアの地位を相対的に低下させていった。
結局、昭和前期(震災復興から商業放送開始まで)とは、広告界が新聞(社)を中心に展開し、『広告界』などの雑誌媒体によってその全体を一望することが可能な時代だったのである。

(なお本稿の引用文中には、旧漢字などを書き改めた箇所があります。また本稿作成に当たっては、竹内幸絵氏のご研究・ご報告を参照させていただきました。記して謝意を表します)