60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

祖塩露示威



「祖塩露示威」(2016年4月18日付日経新聞夕刊)

 先月、私のゼミの同窓生総会のような集まりがあった。
 教員になって今年で20年。留学などで不開講の年もあったが、ほぼ毎年、コンスタントに20名程度の卒業生をゼミから出し続けてきた。 
 一次会は、キャンパスに接した会館の広間で。二次会はバス2台を仕立てて梅田に移動し、店貸し切りで。参加者は150名を超えていた。
 これまで代ごとでの集まりはあったが、こうした総会は初めての試みだった。そのもの珍しさもあってか、けっこう遠くから駆けつけた人もいた。中には、今バンコクにいるはずの人も見かけたので、なぜ日本にいるのとたずねたら、「このためですよ〜」と返ってきたりもした。
 で、この会の趣旨は?
 会の冒頭、司会役の某君は、「さて皆さん、先生が学部長になると聞いて、どう思われましたか。わが愛する母校、学部がどうなってしまうんだろうと不安になりませんでしたか。今日はその辺を…」と切り出した。
 この春から私が学部長の職に就くことをネタに、旧交を温めつつ盛り上がろうという会なのだ。私も開会の挨拶をせよということなので
「どうせ皆から聞かれると思うので先に言っときますが、なぜ学部長をすることになったかというと、昨年の次期学部長を決める教授会で、投票の結果、そうなりました。正の字こそ書かないものの、クラスの学級委員を決めるみたいな感じです。学部長になってどうですか、と言われても、この春からのことなので、まだなんとも答えようがありません」
 そんなゆるゆるなスタートだったが、幹事団ががんばってくれて、いろんな出し物ありの楽しい会となった。皆、よく笑っていて何よりだ。メディア系のゼミなので、広告・放送・出版・音楽などエンタテインメント関連の業界で働く卒業生も多く、会の仕切りや盛り上げ方は、手慣れたもんだなぁと妙に感心もした。
 思いがけないことに、お祝いの品もいただいた。第二十代社会学部長と刺繍された特攻服だ。幹事の人から、先生って何代目の学部長になるんですかとの照会メールがあり、「同じ人が間をおいて二度学部長になったケースがあるので、それをどうカウントするか次第だけど、19代か20代かなぁ」と答えると、「じゃあキリのいいところで20代目で」とレスポンスがあった。それはこういうことだったのかと得心する。
 背中には大きく「祖塩露示威」と入っている。ソシオロジー社会学)と読むのである。 
 今日3月18日は大学の卒業式で、このコラムが載った夕刊が配られる頃には、私はこの特攻服をかかえて、ゼミの謝恩会場へと向かっていることだろう。余興の品というか、二次会での集合写真用のいいコスチュームになりそうだ。定年まであと何回、この特攻服を着る機会があるのだろう、などとも考えてしまう。
 学部長になることが、私にとって、また学部にとって、どういう意味をもつことなのか、それがよいことなのかどうかも、まだよくわからない(教授会の投票で学部長を決める仕組み自体が、よろしくないという議論も最近盛んなようだ)。
 でも、ともかくがんばってみようという気になれた一日だった。昨年来、多くの人から「たいへんですね」と同情され続けてきたが、学部長になるからこそ、こうした集まりももてたわけだし。


                  *


今日は打合せ、チャペル、打合せ、会議、会議、会合の予定。


宇都宮俊晴『日本人にアホはおらん!』講談社、2002


映画「ガキ帝国」の世界。まだ北陽高校が、当時大阪府下にたくさんあった
野球と喧嘩の強い私立男子校だった時代の話。それら男子校の多くは
大学の系列のもとに入り、共学化の道を歩んでいった…。宮本むなし
それから映画「ココニイルコト」を流し見。
クヒオ大佐など、難役を軽々こなしてきた堺雅人が、
関西弁が使えないというだけで、これほど大根に見えるとは…。
逆に真中瞳(当時)の方が、使えるはずなのに…。
それ考えれば、池松壮亮、すごいな。