60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

学会出張


巣鴨に住み、都営三田線春日からという通学路を
2年間たどっていたため、赤門より正門の方が思い入れがある。
今書いている原稿とのからみが少しあり
ロードサイドの文化社会学:「国道16号線的郊外」をめぐって
というセッションを覗いてみる。


その土地の固有性・歴史性にもとずく「場所」と、
そうは非ざる「非場所」という概念が、まず気になった。
4本の報告も全体のテーマ設定もなかなかおもしろいのだが
これをさらにおもしろがるためには、「場所」として16号線を考えるのか
それとも「非場所」として普遍的な郊外論へと展開するのか。
16号線の場所性となると、やはり米軍基地の存在が大きかろう。
文化社会学とあるのだから、横須賀・横浜・八王子・福生・木更津など
いろいろ音楽というかミュージシャンを培養したエリアを貫く16号。
CKB上々颱風、キャロル、ゴールデンカップス荒井由実氣志團
個人的には町田の外道だけどなぁ。
しかし、これらは点であって、沖縄のミュージシャンが58号を歌うような
(58号も米軍基地をつなぐ道。打越さんの暴走族研究も58号沿いだった)
線としての国道16号の場所性ではないのだろう。


もしくは、より抽象度を上げた「郊外」論としての可能性。
しかし、16号線的郊外はそれなりに特殊な気もする。
関西はモザイク状に郊外が入り組んでて、同心円的には考えにくい。
さらに、戦前の郊外開発(ブルジョアジーユートピア)と
ファスト風土的郊外が、同じ所に折り重なっている感じ。
(宝塚にも軍都・伊丹にも古都・奈良にもショッピングモール!)
首都圏のように、第一山の手、第二、第三…みたいなひろがりはない。
いわば、文京区に16号線が貫通してる状態。
また映画「国道20号線」が、殺伐とした郊外を舞台にしようとして
まずは国道16号でロケハンして、結局20号におちついたという話を
読んだことがあるような気がする(記憶違いかも)。
さらに地方都市のショッピングモール研究が描き出すような地方的郊外。
現状では、それぞれの論者が異なる「郊外」「地元」イメージのもと
それらについて語っており、どこかすれ違っている感は否めない。


セッションの場でも、
実体としての16号/表象(さらには言説)としての16号
といった話も出ていた。西武からパルコ、西友、セゾン、無印…
ってのも「西・武州」という土地の歴史からの離脱だろうしなぁ。
個人的にはいろいろ触発される。


ECD+植本一子『ホームシック』ちくま文庫、2017
トニー・ベネットほか『文化・階級・卓越化』青弓社、2017
大塚英志編『動員のメディアミックス』思文閣出版、2017
フィル・ナイト『SHOE DOG 靴にすべてを。』東洋経済、2017


ECD、癌かぁ。