60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

ろぉじと名誉教授

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加藤政洋『大阪』ちくま新書、2019を読んでいたところなので、

天満駅近くの抜け道が気になる。まぁ「路地(ろぉじ)」とは違うのだが。

 

今日は授業実施日。とりあえず登校、もろもろデスクワーク。

 

以下は式辞ではないのだが、学部長として学部紀要に寄せた原稿2本。

今春、名誉教授となられた先生方へ。

 

「奥野卓司教授退職記念号によせて」 

 奥野卓司先生は、1978年3月に京都工芸繊維大学大学院修士課程を修了され、Institute of International Education研究生(米国国務省国際交流計画による公費留学)などを経て、1982年4月に京都芸術短期大学(現京都造形大学)に専任講師として着任され、1986年4月よりは同助教授を務められました。また、この間にイリノイ大学人類学部客員研究員・同客員准教授なども歴任し、1991年4月よりは甲南大学文学部社会学助教授に就任され、1994年4月よりは教授を、また同大学院にて博士課程前期課程指導教授なども務められました。そして、1997年4月より関西学院大学社会学部教授に着任され、同大学院社会学研究科においても教鞭をとってこられました。2001年3月には京都工業繊維大学より博士(学術)の学位を授与され、2001年4月からは関西学院大学大学院社会学研究科にて、博士課程後期課程指導教授として後進を指導されてきました。

 先生はもともと、生態学エコロジー)や動物行動学(エソロジー)をご専攻でしたが、研究対象を人間の社会や文化へと広げていく中で、新たなメディア環境・メディア空間をフィールドとし、そこでの人々の行動のありようを解明していく「情報人類学」という新たなディシプリンを提唱されるなど、人文科学・社会科学・自然科学を横断する、ユニークな研究活動を展開してこられました。

 幅広く、多くの著作をものされ、多岐にわたる活動を続けてこられた先生のお仕事は、安易な整理・要約を拒むものではありますが、以下3点を、その主な特徴や功績としてあげることも可能でしょう。

 まず一つ目は、一時のブームの後、顧みられることの少なかった情報社会論やメディア論を、新たなメディアの誕生やそれを使いこなす人々の登場をいちはやく視野に入れ、それらの議論を再度活性化させた点です。『パソコン少年のコスモロジー』(筑摩書房、1990年)は、デジタルメディアの普及とその使い手である新世代の出現が、人々の行動や社会のあり方を大きく変えるであろうことを、もっとも早い段階で指摘した著作でした。現状を分析するだけではなく、そこに未来の予兆を見出し、よりよき社会を構想・提言しようとする姿勢は、先生の著作に一貫しています。

 二つ目は、上述のような未来志向の一方で、先生は現在の日本発コンテンツを、日本の伝統文化と関連づけて多く論じてこられました。日本発のコンテンツが海外で注目を集める理由が、そのオリジナリティにあるとすれば、それは幾分なりとも日本ローカルの文化的土壌から生み出されているのではないか。奥野先生は、ローカルに根ざす文化であるがゆえに、グローバルに支持されるというパラドクスを、ていねいに解きほぐしてこられました。京都の街中で生まれ育った先生ならではお仕事といえるでしょう。しかし、それは単純な過去の賛美を意味しません。『江戸〈メディア表象〉論』(岩波書店、2014年)は、過去がつねに構築・再編され続けるものであることを指摘しています。

 そして最後に挙げるべきは、社会により開かれた学識のあり方です。奥野先生は学外の役職も多く務められ、多様な業務に当たっておられますが、そこでの経験とご自身の研究とが、相互によき円環をなしているように思われます。近年では、生物多様性の維持や持続可能な社会のあり方について、活発な研究ないし実践に力を注がれています。もちろん学内においても、情報メディア教育センター長や図書館長といった重責を担われ、そうした役務を通じても、ご自身の研究成果の還元に尽くしてこられました。

 以上、既存のアカデミズムの枠やディシプリンの壁をのりこえて、広範な研究・活動をされてきた先生の軌跡をたどってみました。その原点には、『ボクたちの生態学』(ダイヤモンド社、1973年)に描かれているように、既成の価値観が崩れていく中、さまざまな模索を続けた若き日の体験があるのでしょう(この本は私にとっては、1960年代から70年代にかけての若者文化の転換や、カウンター・カルチャーの日本での受容・展開の過程を考える上での貴重な資料です)。

 今後とも、奥野先生がいつまでもお元気で若々しく、自由な発想で新たな領域を切り開き続けられることを学部一同祈念しております。

 

「ルース・グルーベル教授退職記念号によせて」

 ルース・グルーベル先生は、1974年5月にインディアナ大学ココモ校を卒業され、同大学ブルーミントン校東アジア研究修士課程を経て、ネブラスカ大学リンカーン政治学大学院にて1980年7月に政治学修士号、1986年8月には政治学博士号を取得されました。

 職歴としては、1984年9月にイリノイ州のクインシーカレッジ政治学講師に始まり、翌年年9月からはウイスコンシン大学ホワイトウォーター校に移られ、講師・助教授・教授として教鞭をとり続けられました。そして、1996年4月からは関西学院宣教師ならびに関西学院大学社会学助教授として赴任され、1998年4月に同教授に着任されました。 関西学院大学着任以来、講義科目としては一貫して「政治社会学」を担当され、政治に関わる組織・制度・運動の国際比較などを通じて、学生とともによりよき市民社会のあり方を考え、構想することを続けてこられました。

 研究面においても、生活協同組合を主たる研究対象とし、それが環境保護、女性のエンパワーメント、国際的な連帯などに果たした役割を論じてこられました。そして、そうした消費者の協同活動とキリスト教との関係にも着目されてきました。また、阪神淡路大震災の経験も、先生の研究においては非常に重要な意味を有しており、そこから多くの教訓や提言を導き出しておられます。 

 こうした教育・研究面とともに、特筆されるべきは、先生がつねに学校法人関西学院のために、とりわけそのキリスト教主義教育のためにご尽力を続けられた点です。1998年4月より今日に至るまで学校法人関西学院評議員を、また2004年4月より現在に至るまで理事を務められ、2007年4月から2016年3月までは、3期9年の長きにわたり院長の重責を担われました。創立125周年に当たる2014年7月に、キャロライン・ケネディ駐日米国大使(当時)の上ヶ原キャンパスへの訪問、学生との交流が実現したのも、グルーベル院長あればこそでした。

 また多忙を極める院長の職務と同時に、先生は2010年4月から2016年3月まで教育連携室長として院内校(関西学院初等部・中学部・高等部、関西学院千里国際中等部・高等部)や継続校(啓明学院中学校・高等学校)などと関西学院大学との教育連携を統括され、2011年4月より2016年3月まで高中部長、2012年4月より2016年3月まで初等部長の職にも就かれていました。

 そうした関西学院内の役職とともに、先生は1996年10月より2012年12月までと2016年4月よりの期間、学校法人啓明女学院理事(2005年4月に啓明学院に法人名変更)を、1999年4月より2009年3月まで学校法人聖和大学理事を、2017年4月より準学校法人パルモア学院理事を務められ、関学ファミリーとも言うべき諸学校との関係づくりに励まれました。また、1999年4月より2007年3月まで学校法人神戸女学院評議員を、2001年7月より2010年5月まで学校法人静岡英和女学院理事を務められ、またキリスト教学校教育同盟においても要職を歴任されてきました。こうした社会的な活動も、すべての人に敬愛される先生のお人柄ゆえのことと思われます。

 関西学院大学における教育や校務への貢献としては、1997年10月から2005年3月までの国際交流副部長としての、2005年4月から2017年3月までの国際教育・協力センター副長としてのお働き、さらには総合コース・コース担当代表者や人権科目(全学開講)・科目担当代表者として講義のコーディネイトを長年にわたり引き受けられた点も見逃せません。社会学部においても、Sociology in Englishという英語で社会学を学ぶ科目とともに、研究演習(3、4年生に配当されるいわゆる「ゼミ」)も担当され、英語での卒業論文作成に取り組む学生たちの指導に当たってこられました。もちろん、社会学部所属の宣教師として、学部のキリスト教教育全般にわたり、献身的に取り組んでこられたことは言うまでもありません。

 温厚で謙虚なお人柄と信仰に裏打ちされた使命感ゆえに、多くの人々から尊敬と信頼を集め続けられたグルーベル先生が本学を去られることは、残された者たちにとってさびしい限りです。今後とも学校法人関西学院を見守っていただきますよう、関西学院の構成員一同に成り代わりまして、改めてお願い申し上げます。