掲示が出てる。
久保友香『ガングロ族の最期:ギャル文化の研究』イースト・プレス、2024
142p「茶色の背景に、緑色の太いラインが入り、「union」というロゴの部分が切り抜かれている現在のデザインは、当時のままだと考えられる。/「ユニオンの紙袋」について、今回話を聞いた、他の方々にも聞いてみた。すると、東京で高校生活を過ごした六名中四名が、持っていたと答えた。大学生活から東京で過ごしたという一名も、持っていたと答えた。/則子さんは言った。/「今から思うと、なんであんなものがよかったのかわからないけれど、あの頃は、皆、アメリカっぽいものだったら何でもよかったのね。/横浜で、スーパーマーケットの紙袋が「アメリカっぽい」ものだったのには理由がある。「もとまちユニオン」は、1958年に、外国人向けに開業したスーパーマーケットだ。/その背景には、横浜に多くの外国人が住んでいること、具体的には「在日米軍住宅」の存在があるだろう」
154-5p「将造さんが最初にサーフボードを借りた、1964年創業の老舗サーフショップ「ゴッデス」には、雑誌『Fine』のインタビュー記事によれば、次のようなエピソードがあった。きっかけは、「ゴッデス」を経営する鈴木正が、サーフィンが描かれた一枚の絵はがきを偶然見たことだ。「その絵を見てボードを作ったんだ。ベニヤ板でペンキで」と言うが、それで海に出たが失敗。/そこで、すでにサーフボードを作ている人がいるという情報を得て、訪ねた先が東京でサーフショップ「ダックス」を経営する高橋太郎だ。/「ダックス」のホームページによると、高橋のきっかけは、1959年に湘南の葉山でキャンプをした時、燃やすために「近所の雑貨屋から、不要な雑誌」をもらった中にサーフィンの写真を見つけたこと。「実家の近所の材木屋からあまったベニヤや材木をもらってきて、自作のサーフボード製作」をしたが失敗。/国立国会図書館でハワイの資料を集めるなど試行錯誤するもうまくいかない中、1961年に葉山でサーフィンをしていた「米軍兵士の息子・ブラウン」と出会う。/「ブラウンが、浜辺でサーフボードになにかを塗っている」のを見て「あれが滑らない魔法だ」と「さっそく借りてみて、自作のサーフボードに塗ってみると、今までスリップしていたのが嘘のように、すぐに立つことができ」た。その後、ブラウンから「本物のサーフィンの知識、テクニックを教えて」もらったと言う。/つまり日本のサーフィンは、米兵やその家族から、サーフィンをするための「道具」やそれを作る「方法」を伝え受けた人がまずは「道具」を「自作」し、それを「大量生産」するサーフショップができたことで広がったのではないか」
※「ゴッデス:1976年発売の松任谷由実の楽曲「天気雨」の歌詞に登場」
中原一歩『小山田圭吾 炎上の「噓」:東京五輪騒動の知られざる真相』文藝春秋、2024
あの時、小山田圭吾を叩いていた人たちは、またパリの何かを叩いてるんだろうか。
いろいろ醜悪だった東京五輪だが、その最たるものが小山田バッシングに奔った人々だと思う。とくに、某新聞と某コメンテーターたち。