60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

ママはいない


昨日は、在阪某局の番組審議委員会。ネクタイを締め、街へ出る。


行き帰りの電車の中で、今までうかつに見過ごしてしまっていた
アメリカ村のママ 日限萬里子』を読む。
日限さんは、一度だけお会いしたことがある方だ。
(あと某広告代理店1年生時代に帰阪した際
関西支社の同期に「パームス」に連れてってもらった。これまた一度だけ)


90年代末、某財団から研究助成がうけられたので
神戸トアウエストや大阪アメリカ村などを調べていた。
(今なら堀江や中崎町やればよかったかも、とも思うが。
成果は紀要論文と某都市社会学会に呼ばれ、交通事故一回)


そんな話をゼミ生の前でしていたので、
日限さんへのインタヴューを仲介してくれる学生が現れた。
VJなんぞをして、夜の街を駆け抜けてるタイプの男の子で、顔が広かった。
お話をうかがったのは、堀江のミュゼ大阪。(本によると
もうガンを発症をされていたようだが、そんな気配は微塵も感じられなかった)。
多分私はお眼鏡にかなわなかったと思うが
VJの男の子やその時同行したゼミ生女子は気に入られてたと思う。
ゼミ生女子は、だんじりで有名な某街の旧家のお嬢で
彼女の家はミナミに貸ビルを持っていたような気がする。ゼミの面接の際に
「将来のことはどう考えているんですか」
「カフェをやれたらなぁ、とか思ってるんですが…」
(内心、またかよ)「…で、具体的なプランとかあるんですか」
「父がアメ村にビルを持っているので…、1Fに○○の入ってるビルです
頼めばワンフロア使わせてくれるかなぁ、なんて甘いことを…」
(急に関心を示し)「へぇ、そうなの」
といったやりとりをした記憶がある。
彼女の卒論はガーデニングについてだったが、
「私の家の庭には七つの池があり…」
というフレーズは、強烈に脳裡に残っている。


ま、当方はそういった街場感(社会学等で言うところの
「生きられた…」とか「実践」みたいなことを街を舞台に、みたいな)
の乏しい人間なので、彼・彼女たちが逆に物珍しかった。


私は郊外の住宅地に生まれ、人間よりも本が好きな子だった。
ネット社会の今育っていたとしたら
けっこうやばいことになってたような気もするが
ひきこもろうにもお金がありません(byヒロシ)だったため
番組審議委員会などに出かけてたりもするんだと思う。


それから、こんな聞き取りをしてたくらいだから、
まだ30台だった私は、自分のインタヴュアーとしての能力を試していたのだろう。
(そういえば、やはりゼミ生のツテで「三宮高架下のカリスマ」にもお目にかかった)


こうやって、自分で自分の可能性を潰すことはやってきた。


教育者としての自分は、学生の可能性を潰すことに妙に熱心だが
「可能性を間引く」くらいの人であるべきなんだろうなぁと思う。
ゼミなどは、若干丁寧に学生に接することもできるので。