60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(44)大瀧詠一と鈴木雅之、さらに田代まさし。

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(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(44)大瀧詠一鈴木雅之、さらに田代まさし

 

 大瀧詠一大瀧詠一Writing & Talking』(白夜書房、2015年)という非常に分厚い本があります。1948年に生まれ、2013年に亡くなった音楽家大瀧詠一のエッセイやライナーノーツ、インタビューや対談などを徹底的に集めた本です。

 注目ポイントは多々あるのですが、まずは細野晴臣(1947年生まれ)とそれぞれの「アメリカ体験」について語った対談から(2000年6月号『GQ JAPAN』)。

 

825p「細野 小学校の頃、父親が通訳として働いていた横須賀基地の建築現場に遊びに行った。あと、小学校3年の頃、父親が親しくしていた米兵の家のクリスマス・パーティーに呼ばれたんだよ。」

826p「大瀧 やっぱり映画と、あとテレビのホームドラマの比重がでかいんだ、実は。
細野 『パパは何でも知っている』や『うちのママは世界一』?」

827p「細野 次は『ローハイド』だね。これも、結局はフェーヴァーさんという親分がお父さんの役割を果たす、西部劇の形を借りたホームドラマなんだけど。
大瀧 あと『シェーン』でしょう。(略)
細野 あと、西部劇の大きな影響のひとつはガンブームだよ。誰でも何挺かはもっていて、拳銃をクルクル回して、ストンとガン・ベルトに落とすのが流行った。」

828p「細野 (略)FENの影響は大きかったな。
大瀧 細野さんもFEN聴きながら順位をつけたり、何度もテープレコーダーを止めながら歌詞を聞き取ったりしてたでしょ。FEN派は、どこかイリュージョン的で、現実に対処する能力が薄いね。でもって、周囲から浮いてしまう。(略)
細野 そう考えると、僕たちのアメリカ体験というのはおおかたヴァーチャルだね。アメリカ大陸の土を踏む前に、ずいぶんシミュレートしちゃったわけで。大瀧くんも、72年にはっぴいえんどのレコーディングでロスアンジェルスに行ったときが初めてのアメリカだったでしょ?
大瀧 僕はあれが最初で最後。あれがなきゃ、行ってなかったでしょうね。
細野 その後、福生から出たことあるよね?
大瀧 富士山より西は行ってないですね。
細野 アメリカの印象はどうだったの?
大瀧 アメリカの印象はレコード屋だけ。レコード屋へ行ったときは高揚しました。「レコード屋の親父になるつもりか」といわれるくらい買ったからね。」

828-9p「細野 (略)あの時ディズニーランドに行ったけど、結局、あれが僕たちにとってのアメリカだったと思わない?
大瀧 たしかに。自分らが思っているところのヴァーチャルと現実がジャストフィットした感じ。ファンタスティックな、何ひとつ曇りないアメリカ体験(笑)。
細野 で、日本に帰ってきたあとも、バーチャルな気分が続いた?
大瀧 帰ってきて、たまたま子どもが生まれて、住んでいた家が手狭になったんで、基地に近い福生に引っ越したよ。
細野 ぼくも同じだよ。狭山の米軍ハウスに引っ越した。つまり2人とも、日本の中のアメリカに移り住んだからヴァーチャルが続いたんだね。」

 

 そのFENに関してですが、当時岩手の中学生だった大瀧は、インタビューに次のように答えています。

 

15p「その頃に鉱石ラジオとかつくってね。ラジオの時代だから。音楽が聴きたいってのがきっかけで学校のラジオ・クラブに入ってね、中学1年の時。そこで先生がステレオを作ってくれて。それに短波放送が入ったんだよ。実をいうと、”三沢の”FENっていうのは嘘だな、今にして思うと。短波放送で番組タイトルは”ファン・ダイアル”だった。だから非常にクリアに入ったね。まあFENであることは変わりがない。/その後ニッポン放送の”キャンディ・ベスト・ヒット・パレード”だよ、いちばんよく聞いたのは」

 

 他に注目すべき対談は、鈴木雅之とのもの(鈴木のデビュー25周年記念パンフレットが初出)。じつは鈴木(1956年生まれ)は、はっぴいえんどのファンであり、その後アメリカン・ポップスへと舵を切った大瀧とは、鈴木が当時よりブラックな音楽に惹かれていたこともあって、やや距離があったものの、三ツ矢サイダーのCM音楽をきっかけにまた「ナイアガラ・フリーク」の度合いを深めていきます。

 

838p「O そう、75年まで僕がやって、76年は山下(達郎)がやって、結局同じCMが1年間流れるというのをナイアガラ・プロダクションが5年間やったんですよ。
M そういうアメリカン・ポップスみたいのがテレビから流れてきて、そこでコーラスみたいなものを、オールディーズ的なものとして傾倒していっちゃうのね。だから大瀧さんがやってるものが、自分にはまりこんできて、なんとかして大瀧さんと会ってみたなと思うようになったわけ(略)」

 

 マーティン(=M)こと鈴木雅之は、大瀧がDJをつとめる「ゴー・ゴー・ナイアガラ」(ラジオ関東)を愛聴し、ついに田代まさしと中央フリーウェイを飛ばして、福生まで大瀧に会いに行ったりもします。その後、鈴木や田代は、和製ドゥー・ワップ・グループとしてデビュー。改名を経て1996年の紅白歌合戦では、大瀧作詞作曲の「夢で逢えたら」を歌い、田代が曲中のセリフの部分で「大瀧さん、ありがとうございます」と感謝の言葉を述べます。えぇ話やなぁ。(その4年後、田代の最初の逮捕が…)

 

川本裕司『裏切られた未来;インターネットの30年』花伝社、2024