
寺田くん、ちゃんと名前出てる~
天野正子『「生活者」とはだれか:自律的市民像の系譜』中公新書、1996

寺田くん、ちゃんと名前出てる~
天野正子『「生活者」とはだれか:自律的市民像の系譜』中公新書、1996
https://www.youtube.com/watch?v=E-fM5xXYWgI
定期試験週間は、先週で終わり。
自身はテストではなく、基本的に中間・期末のレポートで成績評価しているので、テストの採点業務は発生しないのだが、先週久しぶりに他の先生の授業科目の試験監督を担当した。
役職やってるせいか、年とったせいか、もしくは評価の多様化により定期試験の数自体が減ったのか、最近はあまり定期試験監督当たらなかったので、本当に久しぶり。
昔は学部独自のマニュアルでやっていたが、今は全学統一のもので進行せよとのこと。
机の上に出していいものを列挙する中の一つとして、「消しゴム、ただしカバーは外して」とアナウンスするようにとマニュアルにはある。まぁ、こうしたものは決められたことを言うのが仕事だと思い、そのまま読み上げたが、内心、そこまでする必要あるかなぁと疑問だった。
しかし、上の動画で、必要性を納得。
今日も会議からの会合。

大谷さん、ご活躍は慶賀の限りだが…
クルマも愛され続けていて慶賀の限りだが…
こうやってユーノス(・チャンネル)は、歴史から抹消されていくのだろう。
このクルマが登場したての頃は、「ユーノス」とすら呼ばれていたのになぁ。
日本ではもうロードスターと言えば、この(マツダ・)ロードスターとなるんだろうが、ロードスターは特定の車種名ではなく、あるカテゴリーのクルマの総称、一般名詞なはず。
しつこく、このクルマを、ユーノス・ロードスターと呼び続けよう。
この9月には高齢者となるので、JRを国鉄とか省電とか呼ぶご老人の域に入っていこう。
いや国鉄民営化当時、東京(JR東日本管内)に居たので、E電と言い続けよう。NTTは電電公社だし、JTは専売公社、JTBは日本交通公社。NHKはもちろん、日本放送協会。ついでにJAは農業協同組合、JCBは日本クレジットビューロー、JRAは日本中央競馬会、YKKは吉田工業株式会社、IHIは石川播磨重工業、TDKは東京電気化学工業、NECは日本電気、KKRは国家公務員共済組合連合会、JALは日本航空、ANAは全日本空輸、KDDIは元は国際電信電話…
永井荷風じゃないけれど、偏奇で行こう。偏屈に、過去を忘却しないでおこう。
ついでにCCRは、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル。

昔、渋谷系について調べたことがあり、『Suburbia Suite; Future Antiques』『Suburbia Suite; Evergreen Review』は購入し、眺めた記憶がある。
でも、1980年代から90年代にかけて東京に住んでいたが、どこか避けていた渋谷系。すかしてる、とか、しゃらくさい、とか思っていた気がする。フリッパーズ・ギターの曲や悪ガキっぷりは好きだったけど…。
でも、あぁこういうシーンも折り重なって渋谷系だったのかと、納得。はっぴぃえんど以来の、東京私立一貫校文化臭とはややちがう、東京国公立進学校文化からのサブカル展開。
あまり土地勘は働かないが、東京学芸大附属といえば、YouTuberのたむらかえ氏、面識のあるところでは、立命館大学映像学部の北村順生さん、佐伯順子先生…
サラリーマン家庭で生まれ、社宅育ちと言いつつ、橋本氏からはあの時代--インターネット普及前夜--特有の文化資本を感じる。
今日も校務。教務もある。ひたすら労働。

定期試験期間中に大学生協にて購入。中身はカスタード。
青木幸弘・野村拓也編『デジタル経済下の消費者行動』有斐閣、2026

だんごネコたちとふぉとさん。🍡

今日も休日と言えども登校。
明日から期末レポートの採点ないしそのフィードバック教材の作成もあるので、ともかく校務と後期の教務を進めておかねば。あぁそう言えば校正もある。

同じ年に京都大学文学部に入学し、同じクラス(L3)だった佐藤卓己さんからのご恵送。相変わらずの出版ラッシュに驚くのみだが、今回は自伝要素強い受験戦争史。
佐藤さんは広島で中学受験を経験、広島での1年の河合塾通いを経ての大学進学。
読後の第一感は、同時期に大学受験を経験したと言っても、人(や地域)それぞれなんだなぁ、というもの。
オリオン社の添削はまったく意識に登らず、素直にZ会やってたもんなぁ。大阪の予備校界は、地場の数校はあったものの当時はYMCA一択だったしなぁ。
自身を振り返ってみて、大阪南部の受験熱低めの土地柄ーーお金がかからないが正義という風土なので小中高は公立ほぼ一択、私立お受験ブームが押し寄せてくるはるか以前、国立は枠少ないし当時は抽選もあったーーで過ごし、小6の時父が急逝した事情もあって、私と姉は公立中高から国公立大現役合格の枷の中で10代を過ごした(私立高校無償化の話とか影も形もなく、当時国公立大学の学費はともかく安かった)。
その頃大阪府は9つくらいの学区に分かれており、学区ごとに10数校の府立高が難易度順に並んでる感じだった。国公立大現役合格の枷を考えると、姉も進んだ三国丘高校を中学時代は目ざしたのだが、そこまで激烈な受験戦争を感じることもなく、とくに塾に行くこともなく。
ただ、伸学社という有名私立高校受験特化塾(出身者にラサール石井氏など)が同じ南海高野線沿線にあったため、そこに同じ中学から4~5名の男子が通ってた記憶がある。その世界はけっこう受験戦争だったのだろう。
中1のとき、その中の一人Uくん(灘高→理科Ⅲ類現役)が同じクラスにいたため、まぁ人生の早いうちに「ノット井の中の蛙体験」をできたのは貴重だった。中3の時の同級生のSくんは、孫正義氏や堀江貴文氏で有名な久留米大学附設に行き、寮に入ったはず。
伸学社の生徒は丸坊主がデフォだったので、出家組と呼ばれていた。その中で、どこかで公立校進学に切り替えた同中(おなちゅう)の2名と、一緒に三国丘高校に進み、そのうちYくんとは高1の時同じクラスだった。
中学時代、在家ないし平民の中では勉強できる方だったが、各中学から成績よい子の集まる高校なので、埋もれるだろうなぁと思っていた。が、高1の最初の実力試験の時(上位5%の氏名の貼り出しがあり、長者番付と呼ばれていた)、同じクラスからは、入学式で宣誓したためトップ合格と噂されていたNくんやYくんとともに、私の名前も番付にあった。
橋下府政以降、学区制が廃止され、私立高の台頭などもあり、かつてほどの進学実績ではなくなったようだが、校内の実力試験で生徒をオートマティックに、総合大学的には京都大学・大阪大学・神戸大学・大阪市立大学・大阪府立大学(女性の場合は府立大阪女子大も)受験へと振り分けていくような高校だった。官僚目指すとか、出身が首都圏だったが親の転勤で大阪来てた子などには東京の大学志向もあったが、レアケース(たとえば見田宗介先生)。関空(かんくう)開港以前、難波・天王寺だとホームだが、キタの梅田はアウェイ、さらにその北の新大阪、さらにそのもっと先の東京なんて…という心理的距離感。
共通一次試験(共通テストの前のセンター試験の前の…)の2年目の世代で、日本史・倫理社会、生物・化学と受験科目を決めたため、高2のときには「赤点とらなければOK」科目を発生させたこともあって、長者番付から名は消えたが、3年になったら戻りたいなぁと思い、家で「英文標準問題精講」や「解法のテクニック」、Z会をやってた記憶がある。
高3で無事番付に戻れたこともあり、京都大学志望となり、文系科目が強めで、企業や役所で働く未来が描けない身として、文学部をターゲットに絞り始める(結局先生稼業になるんだろうなぁと思っていたが、教育学部に行くほどの熱意もなく)。その頃、奨学金担当の先生から中山報恩会の予約奨学生を受けてみたらと言われる。
当時同会は、大阪・福岡などの高校から予約奨学生を採り、京大・阪大・神大・九大(神戸商科大や大阪市大も?)くらいに入ったら奨学金を付与する仕組みをとっていた(大阪で中山製鋼所を創業した中山悦治翁が福岡県出身だった)。高3の夏頃に面接を受けて、10名程度の大人(すべて年配の男性)に囲まれたが、無事、京大文志望として予約奨学生になれた。その際、事務局の人に、共通一次の点数みて受験校変えたらお金貰えないのでしょうかとたずねたら、そりゃ無理だよと一蹴された(冗談だったかもしれないし、受験勉強頑張れの意だったかもしれないが)。
こりゃ、京大入らんと、と励みになった記憶がある。5教科7科目の共通一次や国・数・英の二次試験を経て無事合格でき、日本育英会(現JASSO)とあわせて奨学金で大学生活(下宿暮らし)を回せた(母親には「バイトもするし仕送りいらんから」と一応カッコつけたが、結局貰ってた)。前出のYくんも工学部建築学科に進んだので、薄くつきあいは続いていく。
受験生時代、受験テクニック磨いて、それで食べていく道(塾や予備校の講師)も確保しとくか――少子化、なめてました――と思っていたし、大学時代家庭教師などで稼がせてもらったが、飽き性なので受験勉強にこれ以上関わりたくない、との思いもあった。
意外なことに広告会社に入り、制作現場に回されたおかげで(どこの大学出てようが、出てなかろうが、面白いこと考えた人間が偉いという世界)、学歴厨デトックスにはなったよう。普通ならここで受験とは縁が切れるはずだが、7年働いて大学院入試に挑むことになる。
まぁ、仕事が性に合わない、上司が嫌い、クライアントがウザい、職場の人間関係今一つ等々の要素が重なっての暴挙だったが、7年間(バブル期)の残業代で奨学金の返済義務も繰り上げて果たせたし、2年間働かなくても東京で暮らせるめども立ったし。残業代がセルフ・スカラーシップとなった。
大学院入試は、専門(社会学)と英語だったが、社会人枠だったので専門試験は入学後の研究計画を書くだけのものだった(学歴ロンダリングにあたるのか?)。そうとは知らず、社会学やマスコミュニケーション研究のテキスト、用語集を眺めたが、それはのちのち資産となった。英語は大学受験期の読解力に戻したいと思い、駿台の参考書眺めたりしたが、いちばん記憶に残っているのはボブ・グリーン『ホームカミング』を原書で読んでたこと。出先に「資料収集」と書いて、丸の内から(八重洲ブックセンターを越えて)日本橋丸善まで遠征したりしていた。ベトナム戦争から帰還したとき、(ベィビー・キラーと言われて)唾はきかけられた、いやはきかけられなかった(あたたかく迎えられた)という話をパラパラと読んだ。興味もてる対象だと英語苦にならないなぁと思ったことも、大学院時代の資産となった。でも、そういえば大学時代、大学院入試を意識してた時期には、マルクスのフランス3部作を英語で読んでた気もする(←日本史専攻だったが、院試には英語読解力や西洋史・東洋史などの知識も必要だった)。内容、一切忘れたけど。
その後は、会社復帰を経て大学に転職し、入試部長になったり、子どもの受験とかになるのだけれど、まぁそこは割愛。
中山報恩会とは、こちらが関西に転職・帰還して以降、奨学生の選考委員や理事として関わらせていただいている。高校生の予約奨学生制度は無くなったが、今では東京大学・東京科学大学・一橋大学・名古屋大学・奈良女子大学・大阪公立大学・京都府立大学・兵庫県立大学などにも枠を広げ、奨学生(大学生・大学院生)を募集しております。伝統ある、誇るべき大阪発の社会貢献事業として、広く知られてほしいものです。
それからYくんは一旦ゼネコンに就職した後、研究室に戻って研究者の道を歩み、岡山の私立大での教員時代はそれなりにたいへんそうだったが、関西大学に移れてよかったなぁと思っていたら、数年前、癌でお亡くなりになった。
高校同期のフェイスブック・グループで訃報を知り、中・高・大と一緒だった以上、平日日中の葬儀は無理でもお通夜にはと思い、夕刻箕面まで出かけた。一人娘のお嬢さんは、まだ高校生くらいにお見受けしたが。無念だったろうなぁ。
Yくんのご冥福をお祈りします。

娘が福井に行ってきた。ダイナソー、GODIVA。
草光俊雄・眞嶋史叙監修『欲望と消費の系譜』NTT出版、2014

今日は校務、会議など。
【「関西8大学大研究」コラボ企画】ダブル合格者 関西12大学の勝敗(?)表【ウチの生徒の行先】(下) – 学校選びの道しるべ|開成教育グループ 入試情報室 学校・入試情報ブログ
う~む。どう解釈したらいいのか。