60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

かとく


クプラ、小学生の間でも流行っているよう。
息子自作のスタンプ的なもの。


昔、1984〜96年の間、広告代理店の社員だった。
91〜93年の間、休職して学校に行っていたため
実働10年、うち制作現場仕事9年。
(当時は入社12年間は非管理職で、組合員だった)
とくに1984〜91年は、バブルにむかう東京勤務だったので
まぁ超過勤務手当はかなりの額いただいていた
(それが2年間の休職期間中の生活の糧となった)。
いわゆるサブロク協定すれすれで働いていた。
だが、当時はインターネットの影も形もない頃で
仕事の密度やスピード感は、だいぶ今とは違うだろう。
しかも、デスクや作業室や喫茶店で、原稿用紙などを前にして座ってれば
仕事してるとみなしてもらえる職種だった(よく寝落ちしていた)。


で、そのサブロク協定だが、ひと月の上限とか
三ヶ月間での上限とかが決まっていた。
ひと月に上限を超えるような無茶なことはなかったが
三ヶ月では超えたことがあった。しかし、不思議な話なのだが
○月から×月までの3ヶ月間でみるというタームが
最初から決まっていて(年を4期に区切っていて)
その間、上限を超えたらアウト、という取り決めだった。
私が三ヶ月で上限を超えたときは、そのタームではなかった。
所属部署の管理課長からいろいろ言われたが、これ問題ないです
人事(労務担当)にきいてみてください、とつっぱねてた。
直属上司も、まぁ管理がそう言ってるんだからと…と言ってきたが
これで大丈夫ですでつっぱっていた(いざとなったら労基だなと思っていた)。
結局、こちらの言い分が正しいとなったのだが、
この時、所属部署や上司に決定的に不信感を抱いたことが
その後、2年間の休職を思い立つ最大の要因となっている。


80年代に入っても、左翼学生運動がくすぶっているような大学に通っていて
とくだんそれにコミットもしなかったが、その時期の耳学問が、
職業人としての自身の身を守るためのツールとなっていたのかもしれない。
現在は学部長ということで、教員組合をはずれてるけどなぁ。


今日は午前中打合せ、会議、会議、打合せ。
午後からは4年ゼミ生の相手や授業準備、打合せなど。


辻泰明『映像メディア論』和泉書院、2016