60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

[式辞]IKEA鶴浜店



式辞ではないけれども、学期末のチャペルアワーにて、学部長として話す。


 この春学期のチャペルのテーマは、「Kwan-gaku spiritsとは」「大学生とは何者か」「私にとって大切なことば」の三題だったと記憶しています。この中で、今日私が語りたいと思ったのは、「Kwan-gaku spiritsとは」です。私はこの大学の出身ではありませんが、ここに勤めてもう20数年になります。最初は特段強い思いもなく勤め始めた関学ですが、さすがに20年もいると、ここがやはり私が勤めるべき場所だったのでは、と思うこともあります。この場には1年生の人も多いでしょうから、関学に入って3ヶ月経ってみて、果たしてここが本当に自分のいるべき場所なのか…といった思いを抱いている人も、中にはいるかもしれませんが、まぁ、そんな人たちに特に聞いてほしいという気持ちで、「私と関西学院」という話をしてみたいと思います。
 ここが私にとって勤めるべき場所だったと思い至った経緯をお話しするために、まず、いきなりですが阪神高速の路線図をお見せします。私が今住んでいるのは西宮ジャンクションの北あたり、私が生まれ育ったのは堺ジャンクションの北あたりで、高校までここにいました。その家に、今も母親が住んでいます。なので、阪神高速湾岸線はよく利用します。皆さんにとっては、関空に行くときにリムジンで走る線、くらいの存在かもしれませんが。尼崎のへんから乗ると、まずパナソニックのプラズマの工場があって、堺で降りるあたりにはシャープの液晶の工場があったりして、大阪が工業都市としてしんどくなっていった様子がわかるという、ちょっとさびしい気分になるルートです。
 で、西宮から行くと、天保山USJを過ぎて、南港のあたり、左手にIKEAの鶴浜店が見えたりします。ここのIKEA、行ったことある人いますか。ちょっと不便なところにあるので、知らない人も多いかもしれませんが。
 この現IKEA鶴浜店から、私が関学にいるべきだと思ったというところまで、なんとか時間内に話を持って行きたいと思います。
 で、また突然話が飛びます。私は大学時代日本史を専攻し、卒業後いったん広告代理店に就職したという経歴を持ちます。なので、メディア論、ポピュラー・カルチャー論などさまざまなことをやってますが、基本的にはメディア史、とくに広告史の研究者だと自分のことを考えています。昨年暮れには、こんな本(竹内幸絵・難波功士編『広告の夜明け:大阪萬年社コレクション研究』思文閣出版)も出しました。これはかつてあった広告代理店、萬年社のもっていた資料にもとづいた研究書です。本の帯に「広告の太陽は、西から昇る。」とあるように、萬年社は大阪を本拠に、戦前は「東の電通、西の萬年社」とまで言われた会社です。創業年も、博報堂より5年、電通より10年ほど早いです。しかし、1999年に倒産してしまいました。その旧蔵資料の散逸を惜しんだ人たちが、大阪市にそれらを一括寄贈し、大阪市立近代美術館開設準備室というところがその受け皿となったのですが、橋下府政・市政の時期に美術館構想は迷走し、とりあえず今のところ大阪市立大学に萬年社コレクションとして資料類は収められており、整理が進んでいます。そのコレクションを利用して、戦前の萬年社や広告業界のことを研究した成果が、この本です。
 その萬年社の創業者が、この高木貞衛という人です。敬虔なクリスチャンとして知られています。そして、今日の主人公ですが、高木と信仰仲間として親しい関係にあり、萬年社の経営にもたずさわったことのある「加藤直士」という人がいます。加藤は1873年に山形に生れ、新潟の北越学館というところで学びました。関学も当時そんな感じだったと思いますが、宣教師が開いた英語塾といったところでしょうか。北越学館は長続きしなかった学校ですが、内村鑑三が一時期関わったこともあったようです。そこで加藤は、語学の才能を発揮し、かつ洗礼を受けています。
 卒業後は英語力を活かすべく横浜に出て貿易の仕事をしたこともあったようですが、成功せず、東京の本郷教会で伝道師となり、雑誌の編集に関わったりもします。加藤は、文筆の才もずいぶんあったようです。そして、1907年に「基督教世界」という週刊の新聞の主筆となって、大阪に移り住みます。高木貞衛がスポンサーとなって、行き詰っていた「基督教世界」の編集の拠点が大阪に移され、再出発した際に、加藤がその責任者として呼び寄せられたようです。
 その後、加藤は大阪毎日新聞に移り、ジャーナリストとして活躍します。今の毎日新聞朝日新聞も、もともとは大阪が拠点で、大阪毎日新聞大阪朝日新聞から全国紙へと発展していったんですね。萬年社の急成長も、大阪毎日新聞の広告を取り扱ったことが最大の要因です。まだテレビ放送も民間ラジオ放送もない時代、新聞はきわめて巨大な広告媒体だったわけです。加藤は昭和天皇がまだ皇太子だった頃に、イギリスへの随行記を書いたりしています。また関東大震災のときは、たまたま東京にいて、急ぎ大阪に惨状を打電したりしています。
 そして加藤は、1927年に今度は日本ゼネラル・モータースに移ります。GMと略されることの多い、アメリカの自動車メーカーの日本現地法人ですね。ゼネラルモータースは、今でも自動車の販売台数で世界4位くらいにいたと思います。トップはフォルクス・ワーゲンで、2位がルノーや日産など日仏の連合体、3位がトヨタで、その次がGMです。5位がヒュンダイなど韓国勢で、6位がアメリカのフォード、次いでホンダです。今は世界の4位や6位のアメリカの自動車会社ですが、戦前、自動車産業の中心は、圧倒的にアメリカにありました。フォードがT型フォードとよばれる車種の量産に成功し、一気にシェアを獲ったのですが、次いでGMが多ブランド戦略をとって急成長します。皆が皆、同じT型フォード、同じクルマに乗るのはつまらないと、差別化戦略をとったGMは、当時、マーケティングの最先端を行く企業だったわけです。
 戦前、日本に自動車産業が育つ以前、フォードは横浜に、GMは大阪に日本進出の拠点を置きます。GMが大阪に目をつけたのは、戦前の大阪の繁栄もあったのですが、大陸への輸出の便も考えたのだと思います。日本にはまだ自家用車のニーズはあまりなかったのですが、ハイヤーやタクシー、トラックなどの商用車の需要は広がり始めていました。
 そして、日本GMの工場と本社が置かれたのが、さきほどのIKEA鶴浜店のあたりです。今はクルマでしか行けないようなところですが、当時は大阪市内に路面電車網がひろがっていたので、さほど不便ではなかったかもしれません。このGMの工場のイラストは、「工場参観の栞」という、工場見学のパンフレットからとりました。見学者が押し寄せるほど、当時の最新鋭工場だったわけですね。この見学者たちの集合写真の後ろには、工場の様子も写っていますが、これは日本新聞協会という業界団体のお歴々の記念写真です。新聞業界や広告業界、当時のメディア産業の大物たちが、大阪で会合を開いた際、わざわざ皆で見学しにくるほどの設備だったわけです。先ほどの「工場参観の栞」には、見学ルートを示した図もあります。部品を船から陸揚げし、流れ作業で組み立てて、製品を試験場で検査した後、また船で出荷するという一連の流れがみてとれます。また、図の中には事務所もあります。ここで加藤直士は、もっぱら広告制作の仕事をしていたようです。
 当時のGMにはシボレー、ビュイックポンティアックなどの車種ブランドがあり、これらの新聞・雑誌広告を日本で展開していました。加藤は、その広告コピーを考え、アメリカ人の上司に通していたわけです。また、当時日本GMは、広告・マーケッティング面でも先進企業でした。工場開設記念の新聞別刷4頁とか、銀座のネオンサインとか、ショーウィンドウのディスプレイとか、斬新なメディア戦略や広告表現で目を引く存在でした。このウィンドウ・ディスプレイ(飾り窓)を手がけた竹岡リョウ一は、戦後広告制作の世界で大きな仕事をしたデザイナーで、竹岡も一時期日本GMにいて、加藤と机を並べていたというのも、個人的には非常な驚きでした。
 大阪市大の萬年社コレクションには、日本GMアメリカ人マネージャーたちの写真も残されています。これはちょっと写りが悪いのですが、萬年社社長高木貞衛と加藤直士との間に、メイ、フィリップ、ハンティントンといった人々が写っています。日本GMの重役たちなのでしょう。この日本GMの広告を、萬年社は一手に扱っていました。それもこれも高木と加藤の関係にもとづくものと推測されます。今で言うと、アップルやグーグル、アマゾンなど、外資系グローバル企業が日本に進出してきて、ある代理店に一括して広告業務を任せた、くらいのインパクトはあったんだろうと思います
 クリスチャンとしての加藤に関して言えば、日本基督教団大阪教会の宮川経輝の伝記を残しています。大阪教会は、肥後橋界隈に今もある、ヴォーリズ建築で有名な教会です。宮川は熊本出身で、いわゆる熊本バンドの一員でした。キリスト教の流れで言えば、同志社大学などの組合教会、会衆派教会に連なります。高木も加藤も、この宮川の薫陶を受けていますから、彼らもその流れの中にいたわけです。
 その宮川の伝記の中には、組合教会総会が甲子園ホテル、今の武庫川女子大の持っているあの建物で行われた際の、集合写真があります。小崎弘道、海老名弾正などの名が見えますが、いずれも同志社の総長を勤めた、キリスト教界の大御所たちです。中央に高木貞衛がいて、その横に宮川経輝の姿も見えます。高木の存在の大きさがうかがえます。組合教会、とりわけ大阪教会は、高木の献金に多くを頼っていたようです。二列目には畠中博の名も見えます。畠中は宮川の後、大阪教会を継いだ人物で、それ以前は神戸女学院にいたようです。
 さて、徐々に関学に話は近くなってきていますが、メソジストの関学と、高木・加藤らとでは、まだ少し距離があります。でも、ここからいよいよ関学へと話をもっていきます。
 萬年社コレクションを整理していた時、私はこの封筒を見つけました。表には「萬年社 中川秀吉様 加藤直士 伝記出版見積書」とあります。中川秀吉は、戦前の萬年社の大番頭のような人です。宮川経輝か高木貞衛だと思われますが、加藤が萬年社関係の誰かの伝記の執筆・出版に関わった時のもののようです。加藤直士、こんな字を書くんですね。


 で、その封筒をひっくり返してみたとき、私は息をのみました。


 戦前の物資の乏しい時代のことなので、封筒を使いまわしており、加藤のところに来た手紙の封筒に、見積書を入れて萬年社に提出したもようです。なので、加藤の住所氏名の箇所には、大きくバッテンがされていますが、その下ははっきりと「ニシノミヤシ ニカワ カンセイガクイン 8ゴウジュウタク カトウナオシサマ」と読めます。
 もともとこの封筒は、加藤のところに「カナモジカイ」から送られてきたものです。カナモジカイは、漢字ひらがなが混在しているようなややこしい状態を改め、すべての日本語表記をカタカナ横書きにすべきと運動していた団体です。大正期に始まり、伊藤忠商事伊藤忠兵衛(二代目)なども参加していました。そこに加藤がどう関わっていたのかはわかりません。
 しかし、このチャペルからみてそちらの方角の、つい目と鼻の先、あのあたりに加藤直士は住んでいたことがあったのです。その理由はよくわかりません。関学で英語でも教えていたのでしょうか。流れは違うとはいえ、クリスチャンネットワークのゆえでしょうか。大阪の広告業界誌にも、加藤直士氏が仁川関西学院住宅に転居、といった消息記事を見かけましたが、転居の理由や経緯まではわかりません。
 ともかく、それまでずっと追いかけていた加藤直士が、毎朝私がその前を通っていた、あの住宅に住んでいたとは。私はこのとき初めて、たまたま関学に転職してきたのではなく、導かれてここにきたのだという、いわば霊的な、スピリチュアルな体験をしたような気がします。自分の足元を掘っていけば、豊かな歴史の水脈に突き当たる、そんな特別な場所にいることに感謝の念を抱き、神の加護を感じたわけです。阪神間の、さらには関学の文化の厚み、伝統の深さを感じた瞬間でした。
 あの8号住宅は、いずれ上ヶ原キャンパス再開発が進むと、取り壊される運命にあります。しかし、私が関学にいる意義を教えてくれ、私の居場所はここなのだと示してくれた8号館に、私は特別な思いを抱き続けることでしょう。
 皆さんも、4年間のうちに、もしくは卒業してからでも、ここに来たこと、ここにいることが自分にとって特別な意味を持つ、有意義な選択であったと思える時がくるのではないかと思います。そのためには、何でもいいから、何かを追っかけてみてください。私が、それまで文学史キリスト教史の片隅にかすかな足跡を残していただけの加藤直士を追っかけることで、彼が広告界ないしメディア界において、グローバルなスケールの大きさをもつ重要人物であったことほじくり返し、さらには私が関学にいることの意義を再認識することができたように。
 冒頭にグルーベル先生に読んでいただいた聖句のように、求めれば与えられる、探せば見つかる、門を叩けば開かれる、それがこの場所だと皆さんにも思ってもらえればありがたいです。