60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

「広告」に明日はあるのか、ないのか、どうなのか。(15)大阪に明日はあるのか、ないのか、どうなのか。

 大阪・関西万博2025のことはおいといて、まず1970年の日本万国博覧会について。

 

吉見俊哉『博覧会の政治学:まなざしの近代』中公新書、1992
238p「大阪万博は、高度成長を謳歌する日本の大企業にとって、恰好の巨大な広告展示場であった。これは決して比喩でも、誇張でもない。大阪万博が、文字通り企業イメージを向上させるための「広告展示場」にほかならなかったことを最もよく示しているのは、表舞台で活躍する前衛芸術家たちの背後で、電通をはじめとする大手広告代理店が、この頃から企業の展示企画全体に深くかかわるようになってきたことである。大阪万博の場合、たとえば電力館、ガス・パビリオン、ワコール・リッカーミシン館、クボタ館は電通により、古河パビリオンは博報堂により、日立グループ館は東急エージェンシーにより直接プロデュースされている。これら以外にも、表面に出ないかたちで広告代理店が展示企画や出典組織の運営に関与したところは少なくなかったように思われる」

 

 ここにある三社が、EXPO‘25に関してもろもろ入札資格停止となっているようで、皮肉なものです。

 ところで電通は4館担当となっていますが、1966年まで電通にいた小谷正一プロデュースの、いくつかのパビリオンにも電通はそれなりに関わっていたのかもしれません。小谷は戦前大阪毎日新聞社に入り、現在の毎日広告デザイン賞につながる商業美術振興運動を取り仕切り、広告業界とも深く関わった人です。Wikipediaを引くと、戦後は大阪で夕刊紙や民放(新日本放送毎日放送)を立ち上げ、西宮球場で闘牛をやったり、毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)を創設したりの後、吉田秀雄に乞われて電通入り…となります。西宮球場(現西宮ガーデンズ)、懐かしい。福本豊サラブレットと競走したのも西宮球場だったはず。マリーンズとか言われても、私にとってはロッテオリオンズで、木樽&醍醐のバッテリー。そう言えば川崎球場に、南海・ロッテ戦を見にいったなぁ、とノスタル爺。

 さて、先ほどの引用中の「表舞台で活躍する前衛芸術家たち」というと、脊髄反射的に「岡本太郎!」となるかもしれません。しかし、ここで書き留めておきたいのは具体美術協会(GUTAI)のことです。芦屋や大阪中之島を拠点とし、日本でよりも海外での方が評価の高い前衛芸術集団・具体ですが、万博期間中、太陽の塔のもと、今はなき大屋根の下のお祭り広場で「具体美術まつり」をくりひろげていました。今風に言えばインスタレーションやキネティックアート、パフォーマンス等々となるのでしょうが、当時の言葉でハプニング、というかただの悪ふざけ(関西弁ではイチビリ)にも思えます。まぁ、世の中全体が大らかで、勢いのあった時代ということでしょう。

 ちなみに具体を率いた吉原治良の家業である吉原製油(現J-オイルミルズ)も、CMをやっていました。

https://www.museum.osaka-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2018/11/37c89d122778a0af03a50d0b6b00c28a.pdf

 チラシにあるCMは1960年となっていますが、同じ頃、ヴィックスドロップのCMも大量出稿され、スポットCM勃興のきっかけとも言われています。

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 以前述べたjingle(コマーシャルソング)の典型でしょう。ヴィックスと聞けば大正製薬となるんでしょうが、当時は阪急電鉄系の阪急共栄物産が販売代理店であったため、このCMは関西で作られました。かつては京都に「さがスタジオ」というアニメーション制作プロダクションがあり、このCMはアニメーター藤井達朗が手がけたものです(藤井はその後博報堂に入り、CM界でも名を馳せるのですが、早くにお亡くなりになります)。

 初期のテレビCMを支えた広告主は、食品、薬品・化粧品、家電、繊維(当時はまだ各家庭にミシンがあり、繊維各社は一般消費者に生地を売るBtoCの会社でした)等々。いずれも当時は関西が地場な産業だったわけで、高度経済成長期、関西の広告業界、メディア業界は非常に勢いがありました。

 で、万博に話を戻すと、最初の引用にあるように、EXPO‘70は広告の領域をひろげ、広告代理店の業態を変えていく一つの契機となりました。

 最後に一つ、戦前の大大阪時代、大阪毎日新聞大阪朝日新聞の急成長にともない、「東の電通、西の萬年社」と称された広告代理店の話を。その今は亡き萬年社は、ゼネラルモータース(GM)を一手扱いのクライアントとしていました。戦前からアメリカ流の広告ビジネスが輸入されていたわけです。横浜に進出したフォードに対抗して、GMは大阪に組み立て工場を建て、そこにマーケティングや広告制作の専門家を集めます。大阪に拠点を置いたのは、大陸への輸出の便を考えてのことでしょう。

 その工場は評判を呼び、1930年代、「参観者の栞」がつくられるほどの活況を呈します。

 見学者用の順路図まであります。場所は南港付近、現在のイケア鶴浜のあたり。部品の輸入、製品の輸出に至便の立地だったと思われます。

 銀座にゼミラルモータースのネオンも輝いていました。

 NHKプラスからのスクショができないように変更あったのでしょうか(今まで上げたのも、問題アリなんでしょうか…)。仕方ないので画面を撮ったものを。

 さらについでといっては何ですが、溝口健二監督の「浪華悲歌(なにわえれじい)」(1936年)から地下鉄駅構内のポスターや道頓堀のネオンサインなど。

 かつての大大阪とまではいかなくても、EXPO‘70的な盛り上がりを期待してのEXPO’25。「具体美術まつり」を許容するくらいの、度量の広さを見せてもらいたいものです(という以前に、開催間に合うのか???)。

 オマケにTsukuba Expo’85のキャラクター、コスモ星丸を。こんなマイナーキャラのガチャガチャもあるとは。

 

 

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