60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(41)雑誌・書籍を通じてのアメリカ体験

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(41)雑誌・書籍を通じてのアメリカ体験

 

 今回は鏡明(1948年生まれ、広告代理店勤務のクリエイターであり、評論家・翻訳家としても活躍)の『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた。』(フリースタイル、2019年)をめぐってです。この雑誌とは、ハードボイルド・ミステリー雑誌『マンハント』(1958~63年、アメリカ「MANHUNT」の日本版として久保書店より出版)。

 

174-5p「かつて神田で手に入れたペーパーバックには、どう見ても、残飯や、バターとしか思えない汚れやシミが付いていたものが少なくなかった。/これはきっと、米軍のゴミ箱から拾ってきたんだろう。そう思えたのだが、そんなことが気にならいほどに、ぼくはペーパーバックや雑誌が欲しかった。おそらく、その頃、60年代の半ば頃から70年代にかけての洋書の古本の供給源は米軍のキャンプであったに違いない。ベトナム戦争が終わってから、数量が減っていったのは、そうした米軍の兵士や家族が急速に減っていったからではなった。/そうしてみると、60年代は、実は戦後が継続していたように思える。米軍の存在が日常的なものであったということだ。それともにアメリカという国、いや、国以上にそれが代表する文化に対する憧れというものが、きわめて日常的なものとして存在していた。考えてみると、これはとても不思議な状況だった。60年安保が象徴する反米的な気分と、映画やテレビに象徴される親米的な気分が違和感なく共存していたわけだ。ぼく自身のことを言えば、「マンハント」に素直にのめりこめたのは、ぼくの中にアメリカに対するあこがれがあったからだと思っている。そしてその多くはテレビや映画が作りだしたアメリカ像に拠っていたのだと思う」

 

 その『マンハント』に深くかかわった山下諭一(1934年生まれ)は、鏡との対談の中で次のように述べています。

 

293p「当時、ぼくの住んでた家が京都の東山区で、いまのじゃない、元の都ホテルが蹴上にあって、そこが戦後、進駐軍の第五軍、フィフス・アーミー、たしかアメリカ陸軍で一番強い師団だったんですが、のヘッドクォーターだったんです。ぼくが住んでたのは住宅街と、もうちょっとまずしい長屋なんかのあるところのちょうど境目で、二階をオンリーさんに貸してる家があったんですね。オンリーさんを囲えるようなのは兵隊ではなくて士官、オフィサーなんですけど、その頃の若いオフィサーは大学の途中で引っぱられた連中が多かった。/ご存じですかね、当時進駐軍用の細長いペーパーバックス、アームド・サービス・エディションっていうのがあったんですけど、どこかでぼくがディテクティブ・ストーリーが好きだって言ったんでしょうね、あれをくれたんですよ」

 

 活字媒体にとどまらず、鏡の回想は映像や音声メディアにも及んでいきます。以下は、片岡義男テディ片岡)の著書から話題が派生していった箇所。

 

320p「60年代のアメリカのロックとカウンター・カルチャーの情報や知識を大量に含んだ『ぼくはプレスリーが大好き』のほぼすべては、アメリカの本や雑誌から得たものだと思う。ぼく自身これと似たようなことをしていたから、この気分はよくわかる。ぼくの場合、主に「ローリング・ストーン」と「フュージョン」だったけれども、それらのレコード評や記事を頼りにして気になるものがあれば、東京中の洋盤を扱っているレコード屋を探しまわったものだ。/それと、FEN。いわゆる米軍放送だけれども、それも貴重な情報源だった。/片岡義男は1950年代の終わり、つまり十代の終わりにFENを聴き続けていたという。ぼくがFENを聴きはじめたのは、60年代の初めだったから、若干のズレがあるけれども、それが未知の音楽の宝庫であったという印象は変わらない」

 

 次は「夢で逢いましょう」(1961~66年、NHKのバラエティ番組)にアメリカ的なものを感じ、その作り手たちがブロードウェイのミュージカルやエド・サリバン・ショーなどを研究していたことにふれた箇所です。

 

186p「このWebの時代では考えられないことだけれども、情報の伝播速度はきわめて遅かったのだ。ところが、アメリカとの距離はいまよりも近かったような気がする。どうしてなんだろう。/その答えの一つはぼくたちの前に生のアメリカが、置かれていたからではないかと思う。妙な言い方だけれども、テレビの番組はその例の一つではなかったかと思う。ぼくが毎週、必ず見ていたテレビ番組の半分以上はアメリカからの輸入物だったはずだ。もちろん、その背後にはアメリカの政治的な戦略、文化を媒介とした占領戦略があったのは、事実だろう。見せたいアメリカ、素晴らしいアメリカというものを感じさせる番組が、大量に日本で流されたわけだ。それだけではなく、アメリカのテレビの持つ長所を見事に消化してみせる才能がこの国にあった、ということも大きかったかもしれない。/こうした方法が破綻をきたしのとは60年代の後半、ベトナム戦争と反体制的な若者文化が輸入されはじめてからではなかったかと思う」

 

 鏡自身の「消化してみせる才能」が、1970年代以降はCM制作において発揮され、国際的な広告賞の受賞へとつながっていくという連鎖を感じます。

 

 

尾崎俊介アメリカは自己啓発本でできている』平凡社、2024

是枝裕和ケン・ローチ『家族と社会が壊れるとき』NHK出版新書、2020