60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(24) 『ヨコスカ・フリーキー』から『ベットタイムアイズ』へ

 

 山田詠美は1959年に生まれ、明治大学漫画研究会に所属している時代にプロデューが決まり、主婦の友社の『ギャルコミ』に「ヨコスカ・フリーキー」(1982年3月号~83年1月号、本名の山田双葉名義)を連載します。横須賀を舞台にハーフ(黒人の父、日本人の母)のJBと女子高生との恋愛マンガです。小説家としては、1985年に「ベットタイムアイズ」――売れないクラブ歌手キムと黒人米兵スプーンとの同棲生活を描く――で文藝賞を受賞しデビュー。芥川賞の候補にもなりました(その後、1987年「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」で直木賞を受賞)。

 1986年に出版された『ヨコスカ・フリーキー』(けいせい出版)には、「アドリブパーティ」と題して手書き文字とイラストによる近況報告のページが設けられています。

 

「ねー ちょっと聞いてよお!! 赤坂のムゲンで話しかけてきたブラザーが、いやに、あたしのこと知ってんの。そしたら、前のBOY FRIENDのマリークのお兄ちゃんだったのよォ。マリークから、いつもあたしの写真を見せてもらってて、東京行ったら、絶対、あたしのこと、捜してくれっていわれてたらしいの。もー、MY SISTERっていわれて、すごーく、かわいがってもらってる もち、MAKE LOVEつきで💦 彼の名はラシャーヌ(パタリロでなくてよかった) それが、すごーくセンスのいいの、黒人ぽくいいんじゃなくて、大人のIVYで、渋いのよ。雨の日には、バーバリーのレインコートを着てくる。おにいちゃんて呼んで、甘えてます。わあん💦 JOHNごめんね。双葉っていけない子♡」

 

 JOHNは当時の山田のBOY FRIEND。

 1985年発行の家田荘子『俺の肌に群がった女たち』(2001年、祥伝社文庫)からも、元米兵のジェイムスの語りを引いておきます。

 

146p「それまで一般の女の子は、黒人の集まるディスコにでも行かないかぎり、オリンピックとかコンサートでしか私たち兄弟(ブラザー)にお目にかかることはできなかったのです。が、この年からミラージュ・ボウルが始まったんです。/三菱自動車アメリカのフットボールチームを呼んで、お祭りの中に試合をコーディネイトさせた、年に一度の華麗な催しです。/テンプル大学と、黒人のハーバードと言われたルイジアナ州立グランプリング大学が、日本で初めて、白い身体と褐色の身体をぶつけ合ったのです。/日本の女の子たちが、どちらの美に魅せられたか、もうお話しするまでもないでしょう。憑きものがとれたみたいに、急に六本木に赤坂に、もちろん立川に福生にと、ごくふつうの女の子たちが、黒人見たさにくりだしました」

 

 ミラージュ・ボウルは1977年から85年まで東京で開催されました。「憑きものがとれたみたいに」は家田による言い回しでしょうが、それ以前の「白人崇拝」が抜け落ちたということでしょうか。

 横須賀と言えば、基地に依存して生活する人々を描いた映画『豚と軍艦』(1961年)や、写真家東松照明の一連の作品があります。

 

84-5p「東松の写真では軍人相手の歓楽街ドブ板通りが横須賀の換喩として表象され、侮蔑的な表情でレンズを睨む黒人兵の姿が下から煽るようなアングルで捉えられている。ドブ板通りというのは通称で、正式な地名は横須賀本町(ほんちょう)であり、まさしく横須賀の中心地である。こともあろうにその場所が軍人相手の歓楽街というのがなんとも皮肉だ。米兵はドブ板通りを本庁の英語読みで“The Honch”と呼ぶそうだが、偶然の符丁か、“Honch(hunch)”は俗語で性交を意味する」(但馬みほ『アメリカをまなざす娘たち:水村美苗石内都山田詠美における越境と言葉の獲得』小鳥遊書房、2022)

 

 そういえば『日出いづる国の米軍:米軍の秘密から基地の遊び方まで「米軍基地の歩き方」』(メディアワークス、1998年)には「「ホンチ」に集まる女子たち」がイラスト付きで紹介されていました。

 1980年代に話を戻して、先ほど福生と出てきたので、最後にもう一つ引用をあげておきます。福生のハウスといえば村上龍限りなく透明に近いブルー」(1976年芥川賞受賞)が有名でしょうが、布袋寅泰『秘密』(幻冬舎、2006年)から。

 

96-7p「現在の福生にどれぐらい当時の面影が残っているのか俺は知らない。しかし1980年の福生は、まるでアメリカそのものだった。アメリカに基地に隣接しているから町中に外国人が溢れている。カフェやバーからは朝から晩までロック・ミュージックが大音量で流れている。欧米の払い下げ家具屋があり、米軍兵士の古着屋があり、ミリタリーショップやハンバーガーショップがあり、至る所で英語が飛び交っていた。人種も様々だった。…本来は兵士の家族が住むために建てられたものなのだが、空きが出ると日本人にも貸し出していた「ハウス」の家賃は確か1カ月5万円ほどだったと思う。決して安い家賃ではないが間取りはとても広く、「タモツ君」という名の黒の雑種犬に六畳一間を与えていたことを考えると、贅沢な暮らしだったいえるかもしれない」

 

1981年デビューまでのBOØWY雌伏期の話です。

 

 

今日は会議×2、面談など。

 

引き続き留学生からのお土産。新彊特産!