塩澤幸登『木滑さんの言葉』河出書房新社、2024より、木滑良久氏の言葉
116p「ボクが十五歳のときに終戦になったでしょ。それまで鬼畜米英とかいって、アメリカとかそういうものを敵害視するように教え込まれていたじゃない。それなのに、(そういうふうに思い込んでいた)ある日、終戦後すぐだよ、新宿の二幸(駅の東口にあった食料品屋、二階が大きな食堂になっていた)の前、スタジオ・アルタの前の、こういういまみたいな手すり(ガードレール)じゃなくて、(金属は)供出されて、木の丸太になっているんだけれど、そこに腰かけて、ずっと見ていたんですよ。進駐軍が入ってくるのを。それを見たとたんにね、その鬼畜米英が飛んでいっちゃったの、ダーンて。とにかくカッコよかったのよ。ものすごいピカピカで、なんか違う世界の人種が現れたっていう感じがしたんだよ」
一方、甘糟章氏に関しては、
80-1p「学生時代の彼は横浜のオンリーさん(米軍将校たちの日本人妻)たちのあいだでは、ラブレターの代筆をしてくれる“古本屋の東大生”というあだ名で有名だった。大学を卒業するまで、古本屋の店番をしながら、家庭教師のアルバイトとラブレターの翻訳とで生活費を稼ぎ出し、少しも働かない父や兄の代わりに家族を養っていたのだという。/古本屋稼業に関しても、いっぱいエピソードがある。戦争が終わって、何年も経っていない。米軍といっしょに大挙してアメリカ文化が流れ込んできた。風雲急を告げる時代だった。
あのころ、昭和二十五年ころかな、東大の月謝が三百円ですよ。一番儲かったのは、 シアーズのカタログを進駐軍の家を回って買い取って、それを二十冊くらい集めて、こんな大きな箱に詰め込んで、関西に持っていくんです。一冊二千円でブティック(洋品店)を回って売り歩くんですよ。大阪や京都に持っていくとよく売れるんだという話を聞いて、ボクもやってみた。そしたらホントに売れた」(甘糟談)
また塩澤の『夢の行方』(ワコール創業者塚本幸一の伝記、1999年マガジンハウス刊)の中には、「塚本の相棒だった中村伊一」の証言として、「進駐軍の家族が帰国するときに捨てていったシアーズローバックの通信販売の見本帳を売り歩く人がいて、これ買いませんかっちゅって持ってきた。それを一冊買った」(塩澤2024:82)とあるという。
平凡出版→マガジンハウスの社内事情、意外とドロドロ。他にも前田日明がお金に汚いなど、いろんな人に細かく悪口。
ゼミOBのYくん、元気にやってるんだろうか…