60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(17)『warp MAGAZINE JAPAN』の軌跡

 

 スマホなどの普及により、また景気低迷による広告出稿の減少により、2010年代には雑誌の廃刊が相次ぎました。トランスワールドジャパン社の『warp MAGAZINE JAPAN』も2018年5月21日付で、同社ホームページに「休刊のお知らせ」が掲載されています(https://www.transworldjapan.co.jp/news/warp-magazine-japan/)。

 

「1996年より弊社で発行してまいりました「warp MAGAZINE JAPAN」ですが、2018年8+9月合併号(6月23日発売)をもって休刊させていただくことになりましたので、お知らせいたします。/「warp MAGAZINE JAPAN」は、アメリカ西海岸のボードカルチャー、ユースカルチャーをいち早く日本に紹介し、現在では海外へ目を向けた東京発信のファッション・ライフスタイル誌として発行を続けてまいりましたが、昨今の急激な情報源の多様化に伴う、読者や業界のニーズの変化を真摯に受け止め、このたび休刊を判断することにいたしました。」

 

 「東京発信」とありますが、もう少し限定していうと、「裏原(宿)発信」。いわゆる裏原系のムーブメントに呼応した雑誌でした。1990年代から2000年代にかけて、裏原宿エリアにファンション関連の店舗を構えた(もしくはそうした店舗に集まる)若いファッション・ディザイナーなどが「カリスマ」視され、トレンドセッターとしての役割を果たしていました。そして、ストリート系ファッション誌・ライフスタイル誌がそれら「カリスマ」をフィーチャーし、部数を伸ばしていました。

 その中の一つであるwarp誌のインタビュー記事シリーズを一冊にまとめたのが、『LIFE SUCKS:Interview with 23 Legends』(トランスワールドジャパン、2013年)です。その中から何人かのレジェンドないしカリスマの言を引いておきます。

 

大瀧ひろし(1966年生まれ、スケートボーダー、2009年8月号掲載。1980年頃、中学生だった時に都内のスケートパークが次々と潰れ、スケートボードブームは終わったと言われていた。高校に入り、唯一残った清瀬スケートパークか原宿で滑っていた)

19p「音楽は、その頃スケートボードを通じて知り合った横須賀や横田のベースのスケーターから教えてもらっていた。彼らがくれるカセットテープには、A面にマイナー・スレット、B面にブラック・フラッグ、スイサイダル・テンデンシーズとか入っていた。それを聴きまくって、『THRASHER MAGAZINE』にそのバンドの名前が出ているのを見て、「これでいいんだ」と確認をとったりしていたね。そういったスケートパンクをオンタイムで聴いていたんだけど、その後にLL・クール・Jの「I Can’t Without My Radio」を聞いたときには、パンクもこれで終わりかって雰囲気になったよね」

 

HIKARU(1968年生まれ、DJ、アメリカントイなどのグッズを扱うBOUNTY HUNTERを裏原に構える、2010年8+9月号掲載)

138-9p「生まれは長崎の佐世保。母ちゃんが米軍の基地で働いていたから、物心ついた小さな頃からベース(米軍基地)の中で遊んでいました。覚えているのが、ポップコーン。いつもポンポン!って機械が鳴っていて、今でもポップコーンの匂いを嗅ぐと、懐かしいなあという気持ちになるんですよ。あとはオモチャで遊ぶのが大好きだった。ベースの人たちがG.I.ジョーとか、まだ日本に入ってきてないものをくれたりしたんですけど、「お前、これ知っとる?」と、友達に自慢していましたね。(略)小学校の頃は、従兄弟の兄ちゃんがヤンキーで、それがカッコいいなと思っていたんですよ。不良が、というよりは見た目が他と違うじゃないですか。(略)で、小学校6年のときに従兄弟のお兄ちゃんからアナーキーとブラック・キャッツを聴かせてもらい、「ウワーッ! キターッ!!!」と。それからブラック・キャッツが好きになって、「CREAM SODA」の鞄や財布が欲しくて、小学校のときに母ちゃんにつき合ってもらって、博多まで買いに行きました」
※ブラック・キャッツ=1981年原宿のロカビリーショップ「クリームソーダ」のスタッフ6人で結成。

 

長濱治(1941年生まれ、写真家、堀内誠一もいたアド・センターを経て独立。代表作は、ヘルス・エンジェルスやブルースマンの姿を追った写真集など)

190-1p「10歳くらいのときに、その数十年後の僕がいる大きな理由を作ったものにすでに出会った。それはなにかというと進駐軍アメリカ兵が持ち込んできた、目に見える文化なんだけど。今までに見たことがないような異質なものというか。子供心に見ても、彼らの服装や姿はカッコいいなと思えるものでしたね。僕らが住んでいた小牧って町の北側に、駐屯地ができて、進駐軍ジープで右往左往していたんですよ。そこでアメリカ兵のファッションを見たり、放送で流れていたスウィングやビバップ、ブルースだとかの音楽を聴いたりして。(略)ロックンロールに出会ったのは、中学の2年のときに友達と観た「暴力教室」というグレン・フォード主演の映画で知りました」

 

𠮷田克幸(1947年生まれ、神田の「𠮷田カバン」が実家、Porter Classic代表。小学生のころアメリカのテレビ番組に影響を受け、ファッションに興味を持つ)

241-2p「情報の元っていうのが、銀座だったんですよ。だから中学校、高校の頃は毎週末、本当によく行っていましたね。その頃は、みゆき族とか、VANジャケットとかのアイビー。デニムが銀座になかったもんだから、デニムに関しては上野のアメ横へ行ってました。/その頃の銀座にはさ、GHQがあって、進駐軍とか外国の人が帝国ホテルや日活ホテルに泊まっていたりしたんですよ。そういう時代だから、とにかく銀座がなんでも一番早かった。(略)今はなくなっちゃたけど、三信ビルっていう日比谷に古いビルがあったんだけど、そこの地下に輸入雑貨があって、ほとんど毎日通ってましたね。60年代初め頃の出来事ですよ。(略)音楽は、我々の場合はエルヴィス・プレスリーから始まって、もちろんビートルズもそうだけど、アメリカのザ・バンドとかね。あとはフォークソングも大好き。ウディ・ガスリーからボブ・ディラン。もうどれも初めてだから、なにを聴いてもショックでしたね。あと、モダンジャズキャノンボール・アダレイなんかが、60年代東京へ来始めて、そういう人たちが着ているファッションにまたショックを受けた。もう初めて見るものばかりで、全部真似したいわけ。その頃僕は、アイビーよりも黒人の服装が好きだったの。だから横須賀に住んでいた友達に頼んで、黒人さんたちや兵隊さんたちがいる所へ連れてってもらったりしていましたね」

 

 親子ほどの世代間の差はあっても進駐軍や基地(を介して知ったアメリカ)にそれなりに影響をうけた人々が、1990~2010年代にストリート・ファッション誌に登場していたわけです。裏原系ファッションのソースの一つに、いつの時代のものにせよ、つねにアメリカン・カジュアルがありました。

 

さよなら、池内記念館。

 

今日は会議×2など。馬狼、面白いなぁ。岡野、すごい。