60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(31)kickboxingは何語だろう。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(31)kickboxingは何語だろう。

 

 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男:昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社、2020年)を読んでいて、キック・ボクシングが和製英語ながら、国際的に通用する語であることを知りました。

 Wikipediaでkickboxingと引いてみると、確かに項目があり、詳細な記述があがっています(以下はその一部)。

 

The term itself was introduced in the 1960s as a Japanese anglicism  by Japanese boxing promoter Osamu Noguchi for a hybrid martial art combining Muay Thai and karate which he had introduced in 1958. The term was later also adopted by the American variant. Since there has been a lot of cross-fertilization between these styles, with many practitioners training or competing under the rules of more than one style, the history of the individual styles cannot be seen in isolation from one another.

 

 anglicismはan English word or phrase that is used in another language と辞書にありますから、Japanese anglicismは和製英語を意味するのでしょう。キックボクシングとは、野口修ムエタイと空手の要素を取り入れた武術をそう呼んだことに端を発するということです。

 野口はTBSと組んで、キックボクシングを人気スポーツへと押し上げ、沢村忠というスター選手を生み出しました。すると他局も放ってはおかれず、協同企画(嵐田三郎社長、現キョードー東京)は、日本テレビと組んで中継番組をたちあげます。

 

345p「記事にある「協同企画」とは、戦後すぐ進駐軍専用グラブで通訳をしていた、永島達司が起業した音楽興行会社である。/GI向けにジャズミュージシャンを斡旋していた永島は、コンサートの開催に活路を見出し、ナット・キング・コールベンチャーズスプリームスルイ・アームストロングなどの海外の有名ミュージシャンを招聘。二年前にはビートルズの日本公演を成功させていた。現在の社名は、株式会社キョードー東京である。/協同企画が音楽の次に目をつけたのが、スポーツイベントだった。/記事にあるように、アメリカの西海岸で流行していたローラーゲームを日本に紹介し、この年の四月から東京12チャンネル(現・テレビ東京)でレギュラー放映を行っていた。/そこで、スポーツ部門の責任者である嵐田三郎が次に狙いを定めたのが、TBSで放映の始まったキックボクシングだった」(細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』)

 

 協同企画が音楽部門に加え、スポーツ部門をたちあげ、まずローラーゲームを手がけました。日本でローラーゲームの試合が放送されたのは、1972~75年。日米対抗で、基本的にヒールは外国勢というあたりは、力道山以来のプロレスのアングルを引きずっていました。今の60歳代には、けっこうローラースケート(インラインになる以前の)経験者は多かったりします。その後1980年代になると、今度はスケートボードアメリカ西海岸から流入してきました。

 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』から、もう一か所引いておきます。

 

75p「松尾國三という実業家がいた。/少年時代に浪花節の大スター、桃中軒雲右衛門に弟子入りを志願するも、はたせず、まずは旅一座の役者となった。/その後、興行師として身を起こし、日本各地はもとより、朝鮮、満州、上海と渡り歩き、米国本土初の歌舞伎公演も実現される。/興行会社を成功させ、企業経営にも触手を伸ばした松尾は、最盛期には十三のホテルに五つの大劇場、十六のボウリング場、二十四の映画館、五つの大型デパートを経営する。大阪の新歌舞伎座も松尾の経営である。/さらに、本場アメリカのディズニーランドを模した遊園地を、奈良と横浜に開園している。戦後、大阪の千日前に開業した米兵相手の売春宿の名前から採って「ドリームランド」と名付けた」

 

 雅叙園観光社長であった松尾國三と、野口修の父野口進(元拳闘家)との関係性の中で、目黒に野口ジムができたわけです。奈良ドリームランドは、戦後米軍に接収され、1955年に返還された土地を一部利用し、1961年に開園(2006年閉園)。もう少し詳しく調べてみないといけないのですが、ディズニーランドと名乗れず、ドリームランドとなったいきさつに、アルバイトサロン「ユメノクニ」が関わっていたことは確かなようです。

 

大阪歌舞伎座」とアルサロ「ユメノクニ」:南区難波新地四番町・昭和7年(1932)9月に「楽天地」跡地に出来た大劇場で、正面に巨大丸窓を据えた地上7階・地下2階建ビルは、高層建築物が少なかった当時の大阪で異彩を放った。劇場はビルの1~4階部分に設けられ、東京・歌舞伎座を凌ぐ客席数と設備を誇った。その後、翌年には6階にアイススケートリンクが設置され、昭和13年10月、地階に映画館「歌舞伎座地下劇場」が設置された。昭和20年には、6階が改装されて占領軍向けの特殊慰安所(キャバレー「ドリームランド」)となった。このキャバレーは朝鮮戦争勃発時まで営業されたが、その後は「歌舞伎会館」という劇場に転換され、曾我廼家五郎劇と漫才を上演していたが、この劇場は千日デパートに転換後、同デパート6階に開場した演芸場 「千日劇場」に引き継がれ、昭和44年4月に閉館した。http://www1.kcn.ne.jp/~nozaki/kaiinnrepoto/oosakaminamimukasitoima/40sennitimae.pdf

 

 アルバイトサロン、略してアルサロ。ドイツ語とフランス語を混ぜた、関西のある年齢以上の人に伝わるであろう、和製のなんちゃって外来語です。

 

 

今日は会議など。