60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(49)トニー谷というトリックスター

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(49)トニー谷というトリックスター

 

 戦後昭和期に活躍したボードビリアントニー谷。1917年東京下町に生まれ育ち、復員後は本名大谷正太郎からとった「谷正」と名乗り、米軍キャンプやアニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)、東宝渉外部などに勤めるうちに、谷から転訛してトニーと呼ばれるようになり、やがて怪しげな和英折衷語(パングリッシュ)、トニー英語(トニングリッシュ)を操り、ジャズのコンサートなどでMCを務めるようになっていきました(村松友視トニー谷、ざんす』毎日新聞社、1997)。「レディス&ジェントルメン、おとッつあん・アンド・おッかさん、おこんばんは」といった調子です。こう書くとトニー谷は、エセ日系二世風、ないし前回取り上げた軽薄なアメション族のように聞こえますが、村松の見立ては以下の通り。

 

73-4p「トニー・イングリッシュは日本人を揶揄しているように思えるのだが、その半面には占領軍たるアメリカの言葉をもてあそんでいるという要素があった。いや、むしろそこのところに、実はトニー谷という存在の真髄があったのではないだろうか。それは、トニー谷自身の自覚を越えて、あの時代全体を揶揄しているという構造を、トニー・イングリッシュがもっていたからなのだ。そして、トニー谷の軀の奥底にそのような毒がひそかに息づいていたという気がするのだ。/それは、もしかしたら暗い過去をもつものが、明るい世界へ向ける怨年の矢であったのかもしれない。明るい世界には、戦勝国アメリカも入っていたが、そのアメリカに馴染んでゆく戦後の日本のありさまも入っていたし、戦争をはさみながら悠々とくらす芦屋夫人も入っていた。それらへどうしようもない怨念の矢を放つ自分も、むろんその中のひとつだ。つまり、トニー谷の細胞は、あの時代のすべてをお笑い草と把えていたのかもしれないのである」

 

 トニー谷は恵まれた環境で生まれ育ったわけではなく、口先ひとつでのし上がっていき、1950年代前半に全盛期をむかえた芸人でした。「~ざんす」といった奥さま言葉を操ったのも、富裕層に対する「怨念」からだったのかもしれません。そして村松は、外国人を揶揄するような芸風が人気を博した背景には、日本の人々の「怨念」があったのでは、それは力道山が白人レスラーに放つ空手チョップとも通じていたのでは、と述べています。

 しかしそのトニー人気も、愛息が誘拐されるという不運などもあって、50年代後半には急激に低下していきます。1960年代にテレビ番組の司会者として復活するも、1972年の「トニーのガイジン歌合戦」(読売放送)は早々に打ち切りとなってしまいます。

 

193-4p「すでに日本人にとって外人はめずらしくなくなっていた。アメリカは強大国であり、アメリカがカゼをひくと日本がクシャミするという構図はあったが、そのことがアメリカ人対日本人に置きかえにくくなっていたのだ。したがって、アメリカや外人を強者と見立てて、それをからかってみせるトニー谷喝采をおくる感覚は、もう平均的日本人からは消えはじめていたはずだ。(略)むしろ、日本人と外人が仲良く同じ歌を歌うゲームの方が受けそうな時代だったが、それもあまりインパクトがなさそうだ。すでに、外人というだけでは売り物にならない時代に突入していたのかもしれない」

 

 人々の間にアメリカに対する強い愛憎があったからこその、トニー谷人気やヒーロー力道山だったのかもしれません。ハーフではなく、トニー谷のようにイングリッシュネームを使用する人々は、フランキー堺、スマイリー小原、ナンシー梅木フランク永井デニー白川、ジョージ川口マーサ三宅、バッキー白片、ペギー葉山、ベティ稲田、ティーブ釜萢、ディック・ミネダニー飯田、チャーリー石黒、ダン池田(?)などから、GS期のデイブ平尾、エディ藩、ジャッキー吉川ミッキー吉野マイク真木などまでは、本場アメリカへの憧れを感じさせる部分もありました。
 しかし、テリー伊藤、チャーリー浜、ナンシー関ジミー大西となってくると、強くアメリカ(ないし海外)を意識してというよりは、単なる愛称であったり、やや諧謔を含んでいたり、という気がします。これもまた、現在の日本社会における、アメリカの遍在ないし潜在ゆえかもしれません。そういえば、いわゆるキラキラネームにも、漢字にイングリッシュネーム風の読みをあてるケースが多いように思います。