60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(50)ミック立川と1969年をめぐって

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(50)ミック立川と1969年をめぐって

 

 前回、イングリッシュネーム持ちの人々という話をした流れで、GS(ザ・ルビーズ)時代ミック立川と名乗っていたという立川直樹(1949年生まれ)の『TOKYO 1969』(日本経済新聞出版社、2009年)を題材にします。川添象郎などと同様に、プロデューサー業の常として、やったことが明示化できない憾みはありますが、1970年代以降音楽プロデューサー、音楽監督として幅広い仕事をした人のようです(川添象郎『象の記憶:日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』DU BOOKS、2002年)。

 

33p「現在は高速道路が通る六本木通りに走っていた都電。六本木の交差点を飯倉に向かって一つ目の信号の角にあった”ザ・ハンバーガー・イン”も遂になくなってしまったし、”ザ・ハンバーガー・イン”と並んで二十一世紀に入ってもまだ頑張って存在していた”ジョージ”もTOKYO MIDTOWNの工事が始まる時に伝説のヴェールの中に姿を消してしまった。/勿論、赤坂の”ニュー・ラテン・クオーター”も”ビブロス”も”MUGEN(ムゲン)”も既に伝説の存在」

 

 森永博志との対談では、植草甚一が渋谷の古書店で漁書していた件に話が及び

 

130-1p「――恋文横丁の所?

「そう。ちっちゃい古雑誌屋で、僕もしょっちゅう行ってたけど、やっぱりその時『エスクァイア』と『ヴォーグ』見て憧れたもんね。”格好いいな”みたいに。その時代だと雑誌の『ローリング・ストーン』の編集やるのはまだ格好いいと思われていて、七四、五年に日本版『ローリング・ストーン』が創刊されるけど、やっぱり『ヴォーグ』は凄い格好いいと思ったよね」

――わかる。その感じ……。渋谷のあの場所も……。

「古雑誌屋、古本屋、新宿にはない」

――六本木には誠志堂古書部があった。俳優座の向かいにあって、十七、八の時に行くと『PLAYBOY』があった。米兵が売っていった」

 

 森永博志(1950年生まれ)は、ピンクドラゴンの山崎眞行の評伝などもあり、日本におけるアメリカンなユースカルチャーの生き証人の一人。
 新宿に関しては、立川とJ・A・シーザーの対談にて

 

202-3p「「僕は”ジ・アザー”のソウル・ブラザーズと一緒に踊ってたこともあるんですよ」

――え、想像がつかない……

「最初に”アップル”というゴーゴー喫茶が”ヴィレッジ・ゲート”の隣に出来たんですよ。女はタダで、男は一〇〇円だったかな。ただナンパするためだけに行くようなとこで、そこで最初に聴いたのがジミ・ヘンをそのまんまコピーした『パープル・ヘイズ』だったな。そんなのを聴きながら踊って、ナンパしてはという感じだったんだけど、そのうちに踊りを覚えてくると、やっぱり”ジ・アザー”のほうに行ってソウルの踊りをということになって……」

――クックとかニックとか……。

「そうそう。で、ソウル・ブラザーズとやるようになるんですよ。けっこう受けたんですよ。『サタデー・ナイト・フィーバー』じゃないけど、僕らが踊ってた時には広がってくれたし、ソロで踊ったこともありましたね(笑)。けっこう、踊り好きだったんですよ」

 

 新宿カウンターカルチャーの申し子、J・A・シーザーがソウルステップというのは意外ですが、アンダーグラウンドな文化という点では通底していたのでしょう。そう言えば、ソウルブラザーズ(LDHではない!)も、ニック岡井、クック豊本、チャッキー新倉でした。(ソウルブラザーズに関しては、このシリーズの初回、田代まさしの語りの中にも登場)https://sidnanba.hatenablog.com/entry/2024/04/01/000000

 空間プロデューサー岡田大貮(1946年生まれ)との対談では、前出の川添象郎の話も出てきます。

 

276p「――パリに行く前、六八年から六九年ぐらいの時の東京だと、どの辺に一番行っていたんですか?

「六九年頃だと、僕の兄が川添さん、象郎さんと慶應で同期だったんですね。川添さん、六本木”スピード”というディスコをやってたから、そことか”シシリア”とかそれから……。ピザ屋がとにかく格好いい!」

――”ニコラス”とか……

「そう、”ニコラス”にバーがあって、そこでドライマティーニを飲むんだということを大人から教わって。僕等はまだ学生の頃ですよね。十八か十九歳の頃かな。それで真似事をしてね。当時はピザ屋が一番格好よかったんです」」

 

 ニコラスに関しては、ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(角川文庫、2002年)参照のこと。1980年代、バブル期の東京を経験して、私もこうした大人たちの存在はなんとなく感じてましたが、夜遊びするくらいなら早く家帰って本読んで、レンタルレコード聴いて、レンタルビデオ観たい人間だったしなぁ……。

 その頃、たしか「1969」という映画も観たはず。村上龍原作の「69 sixty nine」ではなくアメリカ映画。1988年の作品で、キーファー・サザーランドも出てたけど、まったく評判にならず。当時はなぜかベトナム戦争を回顧するアメリカ映画がやたらと作られていました。やっと、冷静に振り返られるようになった、ということなんでしょうか。

 

 

今日は通院からの、面談や会議など。