60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(8)保養・娯楽施設の接収をめぐって

また別のゼミ卒業生へのリンクです。

 

ギブアンドテイクばかりじゃなくてギブが少し多くてもいいと考えられること。それが学びや成長の源泉になる。 | Interview | Mastery for Service 関西学院

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(8)保養・娯楽施設の接収をめぐって

 

 作曲家・ピアニストの大野雄二(1941年生まれ)の代表作といえば、ルパン三世のテーマがまずあがってくるでしょう。

 

158p「なぜ大野雄二さんが音楽家になったのかというと、そもそもこの大野屋が戦後すぐ連合国軍の保養施設として接収され、幼少期にアメリカの流行音楽に触れたことが影響しているそうです」(福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』ソフトバンク新書、2011年)

 

 熱海の老舗旅館・大野屋は、現在はホテル大野屋となり、恋愛シミュレーションゲームラブプラス」シリーズとのコラボで有名だったりもします(https://natalie.mu/music/news/36260)。

 それはさておき、進駐軍クラブやFEN経由ではない、アメリカの音楽との接触もあったわけです。

 また、阿部純一郎「〈銃後〉のツーリズム――占領期日本の米軍保養地とR&R計画」(『年報社会学論集』31、2018年)によれば、1948年段階で神奈川県下では箱根(富士屋ホテル・強羅ホテル・仙石原ゴルフクラブハウス)や横須賀(逗子なぎさホテル)方面にも米軍用休養施設はあったとか。それから同じく阿部純一郎「退屈な占領――占領期日本の米軍保養地と越境する遊興空間」(蘭信三ほか編『シリーズ戦争と社会2 社会のなかの軍隊/軍隊という社会』岩波書店、2022年)によれば、スポーツ施設などの接収も全国的にみられたのだとか。有名なところでは、明治神宮球場が一時期「ステイトサイド・パーク」となり、神宮外苑競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」となりました。とくに外苑競技場は、1943年に出陣学徒壮行会が開かれたことを考えると、なかなか感慨深いものがあります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2018/31/2018_60/_pdf/-char/ja

 また以下は、『米軍基地文化』(新曜社、2014年)に載せたコラムにて、山口瞳(『江分利満氏の優雅な生活文藝春秋、1963年)についてふれた部分です。

 

「江分利の服装に関するかぎり、戦後はまだ終わっていない」として、「ズボンはアメ屋横丁で買ったカアキイ色のアメリカ陸軍将校用の、軍服」を愛用し続けているとの件などもある。

そして何よりも圧巻なのは、「優雅な生活」のラストの部分。江分利は戦後間もない頃、よく米軍のライスボウルアメリカンフットボールの試合)を見に行っていた。日本人は入れないのだが江分利は塀の穴からもぐりこみ、またスタンドには「パンパン」たちが応援に駆けつけていた。「陸軍と空軍が強く、そのふたつでいうと陸軍の方が少し強かった。元日の優勝戦には全国の基地から兵隊がバスで集まってきた」。

 勝負はたいがい陸軍が勝ち、タイム・アップになると陸軍の選手たちが空軍のエンドゾーンに殺到する。「勝ったチームが負けたチームのゴールを倒すのだ。すると、その時だ。空軍の酔っ払いがただ1人、陸軍応援団1万5千のカアキイ色をめざして殴り込みをかけに行く」。

 MPに取り押さえられた酔っ払いを眺めながら、奴は戦死した仲間の無念を抱えて暴れているのだろうと、江分利(山口)はその心情に共感する。まだまだ戦争の余韻の続く、殺気立った時代だったのである。だが「駐留軍の数がだんだん減ってくると、ライスボウルもおとなしくなった。サラリーマンみたいな兵隊がふえてきた。彼等は「戦争」を知らない。軍楽隊も威勢が悪い」

 

 山口瞳は1923年生まれ。その自伝的要素の強い小説『江分利満氏の優雅な生活』を繰ると、戦後麻布の山口(江分利)家の「2階の4間に下宿人が2人いて、1人が「星条旗(スターズ&ストライプス)」紙の特派記者でイラストレーターのPeter Landa(通称ピート)だった」とあります。今でも、六本木の通称星条旗通りあたりには、米軍向けの新聞やヘリポートなどが存在しています。

 アメリカンフットボールはさておいて、戦前から人気のあったベースボール(野球)は、さらにブームとなっていきます。これは名古屋の事例ですが、享栄商業(現享栄高校)の川村治夫の証言です。

 

82p「近くに米軍キャンプがあり、(米兵が)『われわれにもやらせてくれ』と、ボール、クラブ、バットを持って参加してきた。米兵は野球も相当うまかった。そして、ノドから手が出るほど欲しかったグラブやバットも気前よく、くれた。こんな幸運も幸いして、享栄商は東海地方のトップを走る存在になった」(堤哲『国鉄スワローズ1950-1964:400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』交通新聞社新書、2010年)

 

 ちなみに享栄商は、甲子園球場が接収されていたため阪急西宮球場で行われた1946年の全国高校野球選手権大会には出場できませんでしたが、翌年からは「甲子園の常連組」となっていきます。さらにちなみに、1941年に国防科学大博覧会が開催された西宮球場では、1950年にはアメリカ博覧会が行われました。

 最後も野球ネタで。

 

80-1p「私はいわゆるポツダム文科である。そして我ながら驚くべきことに、野球部に属していた。戦後いちはやく、浦高野球部が再建されたとき、勇躍して武原寮から銀座の運動具店ミズノにバットとボールを求めに行ったのは、私である。銀座にはまだ焼跡があり、四丁目ではアメリカ兵(アメ・ゾル)が交通整理をやっていた。景気よく走っているのはジープだけだった」(澁澤龍彦『私の戦後追想河出文庫、2012年)

 

 澁澤龍彦までが白球を追っていたとは、ビックリです。

 

 

牧久『特務機関長 許斐氏利』ウェッジ、2010

細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』新潮社、2020

 

UZIの祖父が許斐(このみ)氏利で、代々名前に「氏」が入るのだとか(Zeebraの祖父が横井英樹みたいな感じか)。

沢村忠の娘が桜っ子クラブだったとは(Zeebraの娘がRIMAみたいな感じか)。

ちなみに戦後日大の総長の座をめぐる内紛に、許斐氏利が仲裁に入った際、世耕弘一や沖永荘兵衛なども関わっていたとか。香ばしい。

 

今日はゼミ説明会など。