60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(52)バブルの頃、日本版WASPなるものが。

 

 WASP。本来はWhite, Anglo-Saxon, Protestant. の略で、かつてアメリカの支配層、エリート層であった北欧出自の白人たちのことを言います。まずイギリスあたりから東海岸に入植してきた人々の子孫で、ネイティブアメリカン、アフロアメリカン、アジア系、ラティーノムスリムなどはもちろん、ユダヤ系、南欧系(カソリックが主)、東欧系(正教会など)などに対しても、以前ほどではないにせよ依然メインストリーマーとして存在している人々のことです。

 そうしたWASPを前提として、1989年に月刊アクロス編集室『WASP 90年代のキーワード:日本人はいま、どこにいるのか?』(PARCO出版)という本が出版されました。

 

13p「それは“White-collar, Americanized, Suburban, Private”の略である。すなわち職業はホワイトカラー、ライフスタイル・行動様式はアメリカナイズされ、郊外に住み、私生活尊重で個人主義的、というイメージをキーワード化したものである。それは戦後の日本人が、大衆レベルで追い求めてきたもののキーワードであり、一九八〇年代を通じて完成されて来た生活・文化のキーワードである。そしてそのキーワードを最もよく形象化してみせているのが「第四山の手」ではないかと思う。/以下本書では、豊かな大衆消費社会を築き上げた一九八〇年代の日本の原点を、三〇年前のアメリカに求めながら、翻って現在の日本人が今一体どのような文化段階にいるのか、そして今日本人が抱える問題を考えていくにしたい」

 

 1998年に休刊となった『アクロス』(ないし『流行観測アクロス』)はマーケティング情報誌であり、トレンドをとらえる、さらにはトレンドを予測する多くのキーワードを世に送り出しました。中でも、人口集中する首都圏において「山の手(中産階級向けの新興住宅地)」がより郊外へと遷移したことによる「第四山の手」は、比較的バズった言葉です(WASPは残念ながらですが)。

 内容をいちいち説明するのも何なので、章タイトルを拾っていきます。

 

第一部ギブ・ミー・アメリカンドリーム!
 第一章ブロンディの夢
 第二章キャデラックの誘惑

第二部ジャパニーズ・グラフィティ
 第三章マクドナルドとハーゲンダッツ
 第四章コカ・コーラナイゼーション
 第五章ショートケーキハウスの起源
 第六章テーブルの上のアメリ

 

 第三部のタイトルは「ギブ・ユー・ジャパニーズドリーム?」で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン時代」における「アメリカンドリームからジャパニーズドリームへ」、ジャパニーズWASPがアジアに影響を及ぼし「アジアのセンター性強まる日本」など、35年後からみれば、その振り切った夜郎自大ぶりは清々しいばかりです。そして、当時のいわゆる団塊ジュニアたちの意識を次のように描いています。

 

244-6p「一九八六年の夏から八七年の秋口まで、ティーンズのメッカ渋谷では「アメカジ」と呼ばれるファッションが大流行した。アメカジとかアメリカン・カジュアルの略であるが、実施は必ずしもアメリカ的であるわけではない。ただ、非常にカラフルでスポーティブである点、バットマンアメリカンフットボールのチームであるレイダースなどのロゴが付いている点などに、なるほどアメリカ的かと思わせるものがあった。

しかし問題はファッションそのものにあるのではない。そうしたファッションを平気で着こなすことのできる彼らの感性の変容こそが問題なのである。そもそも本書のテーマであるジャパニーズWASPという概念が生み出された背景のひとつが、このアメカジファッションにあった。そこからは明らかに日本とアメリカの文化的関係の変化が見てとれたからである。

一九七〇年代にもUCLAやYALEなどのアメリカの大学名の入ったトレーナーが流行したことがあったが、アメカジはそれとは異なってきている。七〇年代にはまだやはりアメリカそのものを輸入してきているという感じが強かったが、アメカジの場合はアメリカ的なるものを勝手にアレンジしてしまったようなところがある。今のティーンズにとってアメリカはもはや遠い憧れの対象ではないし、豊かさや強さのシンボルでもない。

おそらく彼らにとってアメリカは今や大衆性とチープさの記号なのではないか。けばけばしくテカテカとしたビニール素材のバッグやカラフルなシューズやポロシャツは、必ずしも趣味がいいとも、洗練されているとも思えない。が、その大量生産的な安っぽさこそが、かえって日常的なアメリカを感じさせる。それは彼らが、これまで見てきたように生活の隅々に至るまでアメリカ的な環境の中で育ってきたからこそであろう。彼らにはもうアメリカと日本の区別はつきがたくなっているのではないだろうか」

 

 アメリカが、暗黙の裡に、デフォルトとなって遍在・潜在している日本社会、という見立ては当たっていたものの、そのことによってアジアへの影響力を有するセンター・日本という自画像は、遠い過去のものとなった感、ひしひしとします。

 

 

 最近、外向きベンチも追加されたF号館前。中央講堂横にもあったはず。

 

 今日は、面談、会議、学部での研究会など。