60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(33)50年代と70年代の開放感

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 ここもこんな感じであと10年もてば、一周まわって脚光浴びることもあるかも。

 

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(33)50年代と70年代の開放感

 

 まずは、1970年代の回顧から。

 

24-5p「昭和50年代初めの渋谷を回想するとき、とりわけ懐かしい記憶が浮かびあがってくるのが道玄坂小路の台湾料理店「麗郷(れいきょう)」の一角だ。…「麗郷」の脇から百軒店(ひゃっけんだな)や円山町の方へ上っていく階段道は思い出深い。…坂の中腹あたりに「ミウラ&サンズ」というアメカジ少年にとって重要な1軒が存在した。/ミウラは店を始めた三浦という人の名で、息子を表す「サンズ」(SONS)が付くのは上野のアメ横に「ミウラ」という本店があったからだ。後年(80年代頃)の「ミウラ&サンズ」の写真の看板に〈SINCE 1975〉と入っているのが確認できるからオープンはこの年(昭和50年)、そう、先述したリーバイス501とともに「Made in U.S.A. catalog」から人気に火が付いたコンバースのスニーカーを初めて買ったのがこの店。緑色のローカットのタイプ(チャックテイラー)だったが、この年の夏の写真に少し着古した501とともに写りこんでいるから、おそらく開店まもない頃の客の1人と思われる。/せいぜい10畳かそこらの小さな店だったはずだが、そこにコンバースアディダスのスニーカー(ナイキが登場するのはもう少し後)、フライのウエスタンブーツ、リーバイスやリーのコーデュロイジーンズ……など「Made in U.S.A. catalog」で見た憧憬のグッズの実物が革やインディゴの“いい匂い”を漂わせながら陳列されていた。/そう、冬場にケニントンというメーカーのミッキーマウス柄(ミッキーがスキー板を抱えている)のセーターを見つけて買ったのはここではなかったか……。前回、「宝島」誌の読書欄に掲載された「ミッキーマウスTシャツを愛好するワセ女」の投稿文を紹介したが、この年はアメリカ建国200年に絡んで、そのシンボル・キャラクターに採用されたミッキーのグッズが多々発売されたようだ」(泉麻人『昭和50年代東京日記:city boysの時代』平凡社、2023)

 

 この「ミウラ&サンズ」が、その後に銀座のトラッドショップの古株となる「シップス」です。「麗郷」近くには、かつての「恋文横丁」があり、当時は「2軒だけ“米軍から流れてきたような古着”を扱う店が開いていた」とのこと。

 

28p「「恋文横丁」というのは、正確には“恋文代筆屋”(朝鮮戦争に出征した米兵向けのラブレターを代筆する店)のあった1筋を指すもので、この「サカエヤ」や「ミドリヤ」が並ぶ小路は俗に「メリケン横丁」と呼ばれていたらしい。これらの店には、渋いメンドインUSAモノのシャツなんかがある……という情報が伝わってきて(「ポパイ」の記事にもなったが、それより前だったと思う)、「ミウラ&サンズ」の行き帰りに覗くようになった。「ミウラ--」はサーファーっぽい若いお兄ちゃんが店番をしていたが、こちらは終戦直後からずっとやっているような、ポパイ臭のないオッチャンなのが逆に味わい深かった。/そういった本格メリケンなオッチャンがGパンなんか売る場所としては、もう1つ、横須賀が思い浮かぶ。I君という中学時代からの友だちが「さいか屋」の裏に住んでいて、彼によくドブ板通りに連れていってもらった。米軍払下げ直送、みたいなレアな中古ジーンズの山を眺めて興奮したが、コンポラ(ややツッパリ系の人が愛好していたファッション)派の人が好んで切る光沢のある深緑のジャケットやズボンにただ「玉虫」と品札を付けて売っているのがコワかった」

 

 70年代半ば、ベトナム戦争も終わり、西海岸ブームを平凡出版(現マガジンハウス)の編集者などが仕掛け始めた頃の話です。あくまでも明るく、開放的なアメリカ像。

 その横須賀を描いた映画『豚と軍艦』(1961年)や写真集(東松照明『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』写研、1969年)に関して、以前にも一度ふれた著作から引用しておきます。

 

127p「ドブ板通りと安浦周辺を舞台に描かれる『豚と軍艦』の横須賀はとにかく貧しく猥雑だ。EMクラブの立派な建物と、向かい側に張り付く歓楽街の対比が異様な雰囲気を醸出する。主人公春子の姉は「楽だから」とアメリカ兵の「オンリー」になり、年老いた母親は春子にも同様に「アメさんのフレンド」になれと強要するのだが、拒否する春子を「向上心がない」と叱りつける。母子家庭で貧困に苦しむ幼い弟妹たちは「アメリカになりたい」とため息をつく」

85-6p「東松は一九六〇年代に日本各地の米軍基地周辺を撮影して回ったが、その原動力に「欠落感」があったと語っている。

名古屋で僕が住んでいたところの近くに旧日本軍の練兵場があって、そこが米軍に接収されて基地になってね。だから、アメリカ兵が近所をうろうろしているのを身近な風景として見ていました。その基地が、早い時期に返還されたことで、その欠落感がバネになって、他の基地を撮り始めるようになった。

基地が日本に返還されたことで東松が抱いた「欠落感」とはどのような感覚であろうか。欠落は喪失とは別物だ。米軍が去ってはじめて東松の意識にのぼった欠落感の内実は、アメリカ兵士たちに見たそれまでの日本にはない明るさや開放性ではなかろうか」(但馬みほ『アメリカをまなざす娘たち:水村美苗石内都山田詠美における越境と言葉の獲得』小鳥遊書房、2022)

 

 泉が学生時代に感じた「アメリカ=開放感」とは別種の開放性が、1930年生まれの東松照明にもあったのでしょう。十代半ばまでの閉塞感から、占領期の開放感への転換があり、その象徴としての米兵(米軍基地)へのアンビバレントな思い。以下の引用にある「よくも悪くもファッションリーダー」という表現は、言いえて妙という気がします。