60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

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ゼミ卒業生がMAKi名義で登場。ヘッドフォンして歩いてます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

 

 すでに(22)などでもふれましたが、昔ほどではないにせよ、アメリカと言えば第一義的にWASP(ホワイト・アングロ・サクソンプロテスタント)というイメージがまだまだ強いでしょうが、2060年には人口比で白人43.6%、ヒスパニック28.6%、黒人13.0%、アジア9.1%となるとの予測もあります。https://www.nhk.or.jp/school/syakai/10min_tiri/kyouzai/001601.pdf

 

318p「アメリカは存在しなかった。四世紀にわたる労働、流血、孤独そして恐怖がこの国土をつくったのである。わたしたちがアメリカをつくり、その過程がわたしたちをアメリカ人――あらゆる人種に根ざし、あらゆる色合いをおびて、民族的には一見無秩序な新人種――につくりあげたのである。それからほんのわずかのあいだに、わたしたちは相違点よりはむしろ類似点が多くなったのである。新しい社会――偉大ではないが、「多様のなかの統一」という、偉大さを求めるわたしたちのまさにその欠陥にふさわしい社会――になったのである」
325p「二つの人種的集団が、到着、偏見、受容、そして吸収という型に従わなかった。すでにこの国にいたアメリカン・インディアンと、自分の意志でやってきたのではない黒人である」(スタイベック全集16『チャーリーとの旅 アメリカとアメリカ人』大阪教育図書株式会社、1998年)

 

 この「アメリカとアメリカ人」は1966年に出版されましたが、当時はまだまだヒスパニックへの意識は薄かったと思われます(ヒスパニックという言い方にはスペイン系の意があるので、より広くラテンアメリカ系という意でラティーノが使われることもあります)。

 また、中南米への移民は始まっていたものの、戦前の日本でもなかなかラテンアメリカは意識に上りにくかったようです。

 

212p「日本におけるタンゴブームは、ちょっと込み入った事情がある。そもそも大正一二年、永遠の二枚目ルドルフ・バレンチノの映画『血と砂』に出てきたスパニッシュ・タンゴにシビれて以来、長いこと日本人はタンゴとはスペインの踊りだと思い込んでいた。実際は「アルゼンチンを植民地としていたスペイン風にアレンジされたタンゴ」だったのだが。その後スペインの力が弱まり、アルゼンチンに強力な軍事干渉を始めたフランス・イギリスを経由して、日本にコンチネンタル・タンゴが入ってきたときも、まだタンゴはヨーロッパのものだと思っていた。当時の日本人の国際感覚からすれば、目賀田男爵などごく一部の知識人を除いて、アルゼンチンなどという国のことなど思いもよらなかったのである。当時は「アルゼンチン・タンゴ」という名のフランスのダンスと思われていたのだ」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)

 

 流れが変わったのは、1950年代中頃のマンボブームあたりからでしょうか。でも、「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年、116p)とあるように、アメリカというフィルターのかかったマンボブームだったようです。

 西インド諸島の島々(プエルトリコキューバ、ジャマイカetc.)から、ニューヨークなどへと移民した人々からはサルサなどが広まる一方、メキシコからの移民はロサンゼルスなど西海岸・西部に多く、チカーノとしてのアイデンティティを有しています。Wikipediaのチカーノ文化の項には

 

音楽を中心とした、イーストロサンゼルスやテキサス州のチカーノ文化は特に有名である。低所得層の若者は黒人たちと交流を持ち、近接した文化圏を持つ。カリフォルニア州南部のロサンゼルス、サンディエゴなどではギャングスタとなる者もいる。チカーノ・ギャングスタ(チョロ)の特徴としては、髪を剃り、口髭を伸ばし、サングラスをかけ、さらに所属ギャングの名前やカルチャーなどのタトゥーを入れている者が多い。南カリフォルニアでは自動車産業に従事する者もおり、ローライダーと呼ばれる改造車を好んでいる。ラッパーでは、キッド・フロスト(現:フロスト)が1990年の「ラ・ラーサ」で知られている。また、ロス・ロボスなどのロックは「チカーノ・ロック」と、ティエラやロッキー・パディーヤなどのチカーノ・ソウル/R&Bは「ブラウン・アイド・ソウル」と呼ばれることもある。アメリカ南部のテキサス州を中心としたメキシコ人の音楽全般は、「テハーノ・ミュージック」(テックス・メックス)と呼ばれる。

 

 西海岸にはホットロッドと呼ばれる改造車文化(映画「アメリカングラフィティ」にも登場)がありましたが、それが白人男性文化だったのに対し、ローライダーは有色人種のものでした(少し日本でも流行しました)。音楽で言えば、黒と白だけではなくブラウンもという流れを指して「ヒスパニック・インヴェイジョン」と言ったりもします(大和田俊之『アメリ音楽史ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』講談社選書メチエ、2011年)。また、西海岸のチカーノや黒人のギャングスタイルは、‘Colors’(1988年)や‘ⅯenaceⅡsociety’(1993年)といった映画などを通じて、チーマーに次ぐ不良ファッションとして日本にも伝播します。以下はウーマンラッシュアワー中川パラダイス(1981年、大阪生まれ)の10代の頃の回顧です。 

 

168-9p「…ちょうどその時期に『池袋ウエストゲートパーク』が流行ったんですよね。で、カラーギャングってかっこいいなって思って。
――そういう世代ですよね。
自分たちが一番上の世代になったんで、みんな暴走族やめてカラーギャングやろうって言い出して、地区によって色が決まってるんですよ。僕らは淀川区なんで黄色で。黄色の服を着て悪いことするとかじゃなくて、どっかに集まって朝までしゃべってサヨナラぐらいの感じで…(略)
―― じゃあ、そんなにケンカもしてない。
ないですないです。月に1回、アメ村にカラーギャングが集まる日があったんですよ。いろんな地区の青やら黒やら赤やら白やら黄色が集まって、集まる前はみんな「色違いのヤツ見つけたら全員でボコるぞ」みたいな、気合い十分みたいな感じで行くんですけど、結局何人かと会うと知ってるヤツがいるんですよ。「おう!」ってなって、「あ、知り合いなんや」ってなると結託して、「ほかの色のヤツ見つけたらそいつらボコボコにしようぜ」ってなって、それで次また見つけたら知り合いがいて、最終的にはレインボーみたいになって団体行動するみたいな(笑)」(吉田豪『シン・人間コク宝』コアマガジン、2023年)

 

 ま、これももろもろ屈折したカタチでの、アメリカナイゼーションだと思います。

 

 

 

 この前、実家に行ったときの道中写真。星野リゾート越しのハルカス。以前、

(講義関連)アメリカ(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ - 60歳からの自分いじり

にて堺話をしたが、高校時代、地元の選挙区でなかなか香ばしい候補がいたことを思い出した。ラジオの政見演説か何かを聞いていた際、関西新空港建設を推進する側として、「騒音公害などを心配される方もおられるようだが、技術の進歩はすさまじい。飛行機が垂直に飛び上がる技術が開発中だそうだ。そうなれば、近隣の騒音などは…」みたいな発言を耳にした。「飛行機が垂直に飛び上がる」はなかなかのパワーワードで、しばらく同級生の間ではやっていたように思う。約半世紀前の記憶。

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