60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

アメリカ関連抜書31&8月4日

毎年8月4日に集まっているようだが、入社40周年の節目の時くらいはと参加。

新幹線の時間まで間があったので、二次会も参加、その後30年ほどちゃんと話せてなかった某君ともゆっくり話せた。楽しかった。

同期はすべて社員ではなくなり、若干の重役、3分の1ほどは雇用延長、他は転職や創業・個人事業主、それからリタイアをエンジョイする人もいれば、悠々自適とはいかんなぁという人もいる。

レゲリーマン(レゲエミュージシャンでサラリーマン)を名乗っていた某君も、もうすぐ年金生活とか。

でも、ともかく皆同期。幹事団に多謝。

早めに退職した、某放送局の社長からも花束が。

 

浅田次郎『霞町物語』講談社文庫、2000(パルスビートDJ石田亨「解説」より)

270-1p「青山通り沿い、地下鉄銀座線神宮前駅を出てすぐの場所にパルスビートはあった。並びには、外人のコックが石窯でパンを焼いていた『アンデルセン』、レコード屋の『パイドパイパー』、よく女の子を連れて覗きに行った雑貨店『ヌーボー』などが軒を連ねていた。青山三丁目の交差点近くにあった『ボストンテーラー』で、私も仲間もコンテンポラリースーツ(通称コンプロ)を誂えたものである。/当時、コンポラは不良の証であったが、コンポラを着ているものからアイビーを着ている者に喧嘩を売るようなことはなかった。不良同士の揉め事はしょっちゅうあっても、真面目な者に危害を加えるものは誰もいなかったのである。まして不良は刃物を持つことを恥としていたので、今のように若者が刃物で人を殺してしまう、などといったことは考えられなかった。/そのコンポラが、パルスビートほどに会う店はなかった。当時の日本は、ロックとグループサウンズが全盛で、またゴーゴーホールが街を席捲していた頃である。そんな中、パルスはリズム&ブルースだけを流すディスコとしてオープンした。プレーヤー二台を駆使してミキサーで曲をどんどん繋いでいく、当時としては実に斬新な方法を真っ先に取り入れた店だった」

271-2p「私はいつも、初めにオーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』をかけた。次にオーティスのバックバンドをやっていたバーケイズの『ソウル・フィンガー』、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの『タイトゥン・アップ』あたりで盛り上げていき、クライマックスはやはりオーティスの『トライ・ア・リトル・テンダーネス』で決める。フロアの乗りが最高潮に達したところで、一気に照明を落とし、ブラックライトと一筋のスポットライトだけを残す。そしてこれもお決まりのパーシー・スレッジ『男が女を愛する時』でチークタイムに入るのだった。スロウな曲では自分も一息つきながら、暗闇で抱き合って踊るカップルや、壁際でつまらなそうにしている人などを見下ろしていたものだ」