60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

血族

金曜日、授業+研究会報告者ということで脳ミソ疲れ果て
帰宅後、これまでの流れで山口瞳の『血族』『家族』を読み返してみる。


母は遊郭のオーナーの娘で、父には前科アリ
みたいなドラマチックなバックグラウンドは、わが身を顧みて皆無。
山口瞳と自分との共通点は、母の名前が同じくらいなもので
こちらは祖父(父方は造船所の、母方は紡績工場の技師)の代から「安気」な勤め人の家系。
だが、中学生頃に江分利氏モノをむさぼり読んだ背景には
やはり小学校6年の時の父の急死があったように思う。


関西大手私鉄関連で、大バケもしないが大コケもしない会社の中間管理職一家。
郊外の建売住宅もローンは終わりつつあり、子どもは中二と小六まで育ち…。
と、とりあえず「安気な暮らし」に到達してたのが、いきなり動揺。
優等生で周囲のウケもいい姉はまず大丈夫としても、
偏屈・本の虫・体力なし・特技なし、という弟の方は、
この先自立し、安気な生活を果たして築いていけるのだろうか…。


また、父親の41年の生涯を顧みて、本人本当に満足だったのだろうか…
みたいな疑問もわだかまっていた(普段から寡黙な人だった上に
突然の事故死ゆえ、そのへん確認できずじまい)。
追悼の念と環境変化の疾風怒濤が落ち着いた頃、小学6年生の頭の中には
(甲)「自分にも安気な生活・家庭がもてるのだろうか」
(乙)「もしそれが手中にできたとしても、自分はそれだけで満足できるだろうか」
の疑問がないまぜになっていた。


サントリーの山崎蒸留所に並ぶ熟成樽を見て、
こんな安定感のある企業の正社員となり、やっと俺もここまで来た…
という山口瞳の感慨に嘘はないのだろうが、それだけでは満足できないからこそ
山口は書くという作業を続けたのだろう(父親の入院費稼ぎといいながら)。


甲乙両論に関して、中学生の頃、自分の中で達した結論は
(甲)をとりあえず確保しにいって、
その上で家庭・家族以外のものも何かこの世に残せたらなぁ…
みたいな感じだったように思う。そのための戦略として
それしかとりえはなかったので「受験技術」にひたすら磨きをかけたおす、
という中高時代だった(家の経済考えれば、現役で国公立はマストだし)。
教養とかよりもメシのタネとしての勉強・勉強、「こっちは生活かかってんだ」って
まったく嫌な生徒だったと自分でも思う(でも、仕方ないじゃん)。
だが、文学部行っちゃうあたりは、ツメが甘いとしか言いようがない。


で大学出て、すぐには潰れそうにもない会社に正規雇用されたのだから
安気な生活がとりあえずは手に入ったんだろう
(ただし、健康・長寿とか家族団らんとは、ちょっと縁遠そうな職場・業種)。
だが、この世に残るのが(というかまずは残らない)、匿名でつくった広告だけって…
という疑念もあった。なので転職して、これまた後世には残らないだろうが、
単著も出せて、(甲)&(乙)に片手がかかりかけた頃、
いきなり子どもを二人授かり、家のローンを背負うことになった
(すでに43歳。父親の年齢を超えた段階で)。


「なんとかやっていけそう」な子どもたちの姿と自分たちのものとなった家を眺める、
みたいな安気な心境は、いつになったらやって来るんだろうか???
二兎を追うものは…と言うぐらいなので、ふんどし締めなおして
まずは(甲)狙いで、事故や病気に気をつけて、着実に生きて行こうと思う。
ローンが終わり、真にマイホームパパになれるのはいつのことやら
(たぶん定年時。ただし子どもたちが無事自立してれば、とりたててパパという必要もなさそう)。


要するに、マイホームパパになり、小市民であることの難しさを再認識。
(マイホームパパなだけで果たしてそれでいいのか、とかいう以前に
まずマイホームパパになるだけでも大変なことだと感ずる今日この頃)
世の中的にも、ぐろーばりずむでねおりべらりずむなのだそうで
安気な生活を手に入れることの困難が、最近さまざまに語られている。
今後、山口瞳再評価の気運が高まるのでは、と予想しておく。


関係ないけど
アリエル・ドルフマン, アルマン・マトゥラール 『ドナルド・ダックを読む』。
米帝としてのディズニーを批判するアリエル…