60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

 

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 さて、建築に関してですが

 

159-60p「夫婦の性愛化はまた、夫婦の器/ハコ――つまり住空間についての言説にも現れる。西川祐子は、占領期、西山夘三や浜口ミホの日本の住宅理論が「一組の夫婦とその子供たちから成る近代核家族のための容器、という住まいのコンセプト」を明瞭に打ち出したと指摘する。さらに西川は、西山の「寝食分離理論」や浜口の「脱封建性」住宅の呼びかけは、同時期のアメリカ占領軍の住宅(ディペンダントハウジング)のコンセプトと通底していたと述べる。そのコンセプトとは何か。占領軍住宅の建設に従事した日本人建築家・網戸武夫の言に耳を傾けよう。

ファミリーでなければ、ワシントンハイツには入居できないです。そうすると、そこにあるのはアメリカの生活方式です。その生活というのは、短絡的にいえば夫婦単位の生活つまりセックスです。(略)だから女性は家にいても非常にカラフルなものを着て、挑発的で、帰ってきたらいつもキスをするとか、抱き合うとか。そういう二人の行為が営まれる場所としての軍の施設であること、それは歴然としています。

つまり、日本の住宅理論家が戦前に想起し占領期に展開した住空間のコンセプトとは、同時期に占領軍の家族が営んでいたアメリア的家庭生活――「夫婦の寝室」を中心とした生活――と同様、夫婦の性愛の営みを空間的にも囲い込むことも目指すものであった」(木下千花「妻の選択:戦後民主主義的中絶映画の系譜」ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

とあるように、日本に近代的なライフスタイル、家族像をもたらすうえで、米軍住宅はそれなりのインパクトがあったようです。もちろん、戦前から住宅改良運動はいろいろありましたが(内田青蔵『アメリカ屋商品住宅:「洋風住宅」開拓史』住まいの図書館出版局、1987年)、占領・被占領という関係性の中で、アメリカンなライフスタイルはやはり圧倒的だったと思われます。

 先の引用文中に「ディペンダントハウジング」とあるのは、扶養家族との同居といった意味合いで、要するに家族で日本に駐留する世帯に対応する住宅の意です(略してDH)。ワシントンハイツは敷地面積277000坪、総戸数827戸、成増のグラントハイツは600000坪、1260戸の規模で、礼拝堂・劇場・クラブハウス・学校・PX(酒保、売店)・日本人使用人宿舎があり、グラントハイツには野球場もありました(小泉和子編『占領軍住宅の記録(上):日本の生活スタイルの原点となったデペンデントハウス』住まいの図書館出版局、1999年、52p)。また同書38pの「表2 DH建設の地域別(日本、朝鮮)家族数」によれば、総数13561(うち東京5199、横浜2830)と、やはり東京近辺に集中はしつつも、全国で建設が進んだ様子がうかがえます(ちなみに朝鮮では、ソウル、釜山、光州、大邱、大田などで計1582家族)。

 また単に家を建てるだけではなく、米軍ハウスには新たな家具調度、什器・電気機器などが持ち込まれました。

 

225p「「オフリミット」の看板を掲げた金網に囲まれた中に建つDH住宅を直接見ることができた日本人は、当時きわめて少なかった。ただ出入りの業者やメイドなどの日本人を通じて、「アメリカ人の家は暖房が効いてるから冬でも半袖を着ている」「蛇口からお湯が出る」「アメリカはレデイファーストで男も台所に立つ」などといった話が一般に伝わり、衝撃を与えた。またPXから放出される米国製日常雑貨も人々の心をとらえた。/なにしろ普通のアメリカ人の生活を直接目にするというのは、一般の日本時にとっては初めての経験である。しかも、文化的な格差はきわめて大きかったから強烈なカルチャーショックだったのである。このため必死にアメリカ文化を吸収しようとした。四七年には「アメリカに学ぶ生活造型展」が、四八年には「海外生活資料文化展」が開かれて、アメリカのモダンリビングや海外の進んだ量産日用器具が紹介された。/GHQも率先してアメリカ文化の紹介に努めた。小学校の校庭を利用して映画界を催しなどして、進んだアメリカの住宅や台所の紹介を行う一方、農村に対してはGHQ天然資源局が主導して、四七年から農林省を中心に全国的な規模で生活改善運動を展開した。これは竈の改善にみられように農村が主体で、農村に色濃く残っていた封建制度の打破が目的であったが、そこで見せられたアメリカ映画の台所やインテリアに人々は瞠目した。「よくこんな国と戦争しようとなどしたもんだ」と誰もが改めて慨嘆し、なんとかしてあんな生活がしたい、あんな家に住んでみたいと熱望した」小泉和子編『占領軍住宅の記録(下):デペンデントハウスが残した建築・家具・什器』住まいの図書館出版局、1999年)

 

 その後、米軍基地住宅も多様化していったようですが(幸まゆか『基地住宅今昔物語』日本図書刊行会、2000年)、生活様式アメリカナイゼーションの展示場として、DHハウスの住宅群は機能していきました。

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 

 

ゼミ卒業生の監督作品。広報室も対応してたくれていたこと、遅ればせながら認識。

 

 今日は町内のお仕事など。