60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

 

 以前、米軍の接収した保養地や娯楽施設ついてふれた(8)にて、ナイル・キニック・スタジアムや米軍内のアメリカンフットボール対抗戦などについてふれました。アメリカン・スポーツとしての野球の、戦後の隆盛に関しては山室寛之『プロ野球復興史:マッカーサーから長嶋4三振まで』(中公新書、2012年)や谷川健司『ベースボールと日本占領』(京都大学学術出版会、2021年)、ボウリングに関しては笹生心太『ボウリングの社会学:〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』(青弓社、2017年)など参照のこととして、ここではアメリカンフットボールについてふれておきます。

 アメリカンフットボールは戦前から日本に入り始め、「ベースボール→野球」ほどには普及しませんでしたが、「鎧球」「米式蹴球」として戦時中もかろうじて命脈を保っていました(ちなみにバスケットボールは籠球、バレーボールはアニメ「ハイキュー!!」でおなじみの排球)。そして敗戦。

 

30Kp「戦争直後にスポーツする余裕などなかったように思われがちだが、終戦とは「スポーツできる日々」の復活でもあった。野球、陸上、サッカーなどあらゆるスポーツが復活に向けて動き始めた。中でも、マッカーサー元帥自身が、戦争中も試合結果をいつも気にしていたと言われるフットボールは、米軍(連合軍)占領下のもと、素早い復興ぶりを見せる。/1945年10月3日、甲子園球場を連合軍(第15軍)が接収する、連合軍関西司令官は、ウイリアム・キーン少将。フットボールファンだった少将は、ただちに甲子園球場を舞台に、部隊対抗のフットボール試合を開催した。そしてこの試合に、戦前の関西の大学フットボール選手―坪井義男(関大)、井床国夫(関学)らを招待した。当時、甲子園球場周辺がイチゴ畑だったことから「ストロベリー・ボウル」と呼ばれたこの米軍の試合をきっかけに、関西の学生フットボールは復活ののろしを挙げる」(川口仁『岡部平太小伝:日本で最初のアメリカンフットボール紹介者――附改訂版関西アメリカンフットボール史』関西アメリカンフットボール協会、2004年)

 

 大学とともに、高校でもアメリカンフットボールは盛り上がりを見せ始めます。

 

32Kp(1946年9月)「大阪軍政部のピーター岡田が、フットボールのボールを持って大阪北摂の2つの中学、池田中学(現大阪府立池田高校)と豊中中学(同豊中高校)を訪れる。そこでタッチフットボールの講習が始まった」

34Kp「実はピーター岡田以外にも、フットボールを中学で広めようという動きは日本の各地の米軍基地であった。関西では奈良(旧制奈良中学、奈良商業)、京都(日吉ヶ丘高校)、さらには山口(山口高校)などでフットボール部が生まれた。北海道の函館中学などでもフットボール部創設の動きがあったらしい。/中でも奈良は、米軍奈良キャンプの日系人・小田野中尉が熱心に指導、自ら奈良中学のグランドにこまめに足を運び、生徒とともにタッチフットボールをプレーした。この時代の奈良中学からは関西の大学フットボールで活躍する選手が多く生まれている。しかし継続した指導者に恵まれず、やがてタッチフットボール部は消えてしまう」(川口前掲書)

 

 阪神間アメリカンフットボールが根付いたのには、阪神間モダニズム(さらにはアメリカニズム)といわれた戦前からの流れがあったからかもしれません。たとえば、前出の「ピーター岡田はのちに米軍を退職し、しばらく箕面、そして宝塚に居住し、貿易関係の仕事を営んでいた。彼の母親で日系1世の秀(ひで)が敬虔なクリスチャンであり、当時、箕面市桜井でバイブルクラス(聖書学習のための家庭集会)を開いていたこともあり、ピーター岡田は北摂地区には縁があった。なお秀は自由メソジスト派のクリスチャンであり、関学高等部部長河辺満甕(かわべみつかめ)の父河辺貞吉から導きを受けている」(川口前掲書、33Kp)。

 一方「京大は沢田久雄が同志社の伊藤の指導を仰ぎながら、なんとか作り上げたチーム。ちなみに沢田の母はエリザベスサンダースホーム創始者として知られる沢田美喜である。海軍兵学校陸軍士官学校出身の選手が多く、激しい闘志を全面に出すチームだった。京都軍政部に所属していたジョン・ピンカーマン特務曹長を監督に迎え、短期間で力強いチームを作り上げた」(川口前掲書、39Kp)。

 こうした大学アメリカンフットボールの復活により、1947年には東西の代表校による甲子園ボウルが行われ、「‘48年1月17日、東京のナイル・キニック・スタジアム(戦前の明治神宮外苑競技場をこう改称していた。現在の国立競技場)で、第1回のライスボウルが行われた。関西と関東のオールスター戦が復活したのだ。ちなみにナイル・キニックとは、第2次大戦で戦死したイリノイ大学のスター選手の名前からつけられたもの」(川口前掲書、40Kp)。

 またこの1948年には、関西学院大学アメリカンフットボール部にとって、「ミスター・ローは神戸の米軍軍属であり、何度か来校してコーチをしてくれたが、対同大戦の11月27日、大型ジープにアメリカ製防具を満載して来、寄贈してくれた。そのときは部員一同、思わず歓声を挙げ、狂喜したものであった」という慶事もありました(米田満編『関西学院大学アメリカンフットボール部50年史』関西学院大学体育会アメリカンフットボール部OB会、1991年、30p)。

 占領期、武道は雌伏を強いられたこともあったようですが、ベースボールなどアメリカン・スポーツは人気を博していきます。そういえば、ワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が、少年たちを集めて野球チームを作ったことが、ジャニーズの発端でした(その後、前回もふれたミュージカル映画ウエスト・サイド物語」をきっかけに、ショービジネスを目ざすこととなるのですが)。

 

先日(といっても4月半ば)、知人のお通夜で箕面聖苑に行った際。
中・高一緒で(一貫校ではない、たしか高校1年が同じクラス)、大学も学部は違うが一緒。
建築学科で修士まで進み、ゼネコン勤務を経て大学教員に転身し、岡山理科大から関西大学に移ったというのを、かなり前の同窓会で聞いた気がする。
関大で定年まで勤めるものだと思っていたのに、癌の進行が思いのほか早くといったことだったらしい。娘さんが一人、うちと同じくらいの年恰好に見えたが…
ご冥福をお祈りします。

 

今日は講義、院ゼミ、会議、Zoom研究会など。

 

真鍋公希『円谷英二の卓越化:特撮の社会学』ナカニシヤ出版、2024