60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(18)アーニー・パイル劇場とテキサスハウス

 

 大竹省二は、女優のポートレート写真などで有名な、昭和を代表するフォトグラファーです。大竹省二『遥かなる鏡:ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)の著者略歴には、「一九二〇年(大正九年)五月十五日、静岡県生まれ。上海の東亜同文書院に学ぶ。四二年応召。四四年北京の日本大使館報道部付となる。四七年GHQ広報部嘱託としてアーニー・パイル劇場で、来日女優を撮影」とあります。日比谷のアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)は、1946年から55年まで接収され、沖縄戦線で亡くなった従軍記者アーネスト・パイルにちなんで命名されました。

 

186-7p「(支配人の)パーカーが帰国した昭和二十三年を契機に、劇場は大きく変革した。大がかりなショーはなく、日本人の出演者や新着のアメリカ映画が主流となって、舞台のスケジュールを埋めていった。/したがって、来日女優の撮影もほとんどなくなった。それは、僕の劇場における仕事の終焉を意味していることであった。…その後、アーニー・パイル劇場には、石井好子をはじめとし、美空ひばり江利チエミペギー葉山雪村いずみ高峰秀子中村哲(カナダ二世歌手兼東宝俳優)などが舞台に立った。その他多くの日本のジャズ・ミュージシャンが加わり、優秀な人材が育った。/アーニー・パイルは、そういった意味で、戦後の現代日本ポピュラーミュージックの温床ともなり、日本におけるこの世界の基盤を作った功績は大きかった。/また、従業員の中から、コメディアン、トニー谷が生まれ、事務員からファッションモデルの今井美恵子が生まれた。舞踏団からは藤田泰子が松竹のスターとなった。/アーニー・パイルの日本の踊り子たち数名は、伊藤道郎氏の主宰するモデル・エージェンシー「みゆきファッション」に移籍し、日本における最初のモデル紹介事務所となった。/オペレッタ「ミカド」を演出したジョージ・スティーブンスは、帰国後、数年たって、ジャームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の「ジャイアンツ」(一九五六年)のプロデューサー兼監督として名声を博した」

 

 その大竹省二が1950年代から60年代にかけて暮らした「赤坂檜町テキサスハウス」に関して、同じアパートに居住した永六輔が、当時の関係者などにインタビューしてまとめた、永六輔『赤坂檜町テキサスハウス』(朝日新聞社、2006年)という本もあります。ちなみにテキサスハウスは永がつけた愛称で、大竹などは家主の名から「花岡アパート」と呼んでいたとか。

 

15p「今はないテキサスハウスの場所。赤坂通から乃木坂を上る手前、右に乃木會館をみて左に曲がる横町の突き当たり、石の壁に寄りかかっているように建っていた木造アパート。(略)野坂昭如説だと、乃木坂周辺は移転した防衛庁の前は進駐軍のキャンプ(その前は近衛師団)。アメリカ軍将校のオンリーさんのアパートがたくさん建てられていた。/それが朝鮮戦争(一九五〇~五三年)でダンナがいなくなり、オンリーさんが手放した部屋に当時の金まわりのいい人種が引っ越し、花岡アパートもそうした建物だった」

 

 赤坂周辺にはテレビ局があり、放送作家である永六輔キノトール(パートナーはテレビでも活躍した医師・性医学評論家ドクトル・チエコ)、三木鮎郎(三木鶏郎実弟)たちや女優(草笛光子)、ジャズ歌手笈田敏夫)、映画監督(野村芳太郎)などがテキサスハウスには住んでいました。ちなみに大家・花岡太郎(作家)の子が、花岡宏行(春風亭小朝)。また、よく遊びに来ていた面々に、森徹・佐々木信也南村侑広など野球選手、ロイ・ジェームス安部譲二神吉拓郎前田武彦岸恵子飯田蝶子清川虹子江利チエミ芥川也寸志などがいたとか。

 このテキサスハウスの様子(1953年当時)について、永は「笈田宅の壁いっぱいにLPが飾ってあるが、これも米軍の放出品で、国産のLPはまだなかった時代である。何しろ、僕はテキサスハウスで、洋式便所もバスタブも初めて見かけたのだ。/見かけただけではない。逆位置でまたがって目の前のパイプにつかまって用を足した。/テキサスハウスは、僕にとって、アメリカだったのである」(35p)と語っています。そして60年安保の頃に関して、永は次のように述べています。

 

68p「反米闘争の一方で、アメリカに憧れるという不思議な時代だった。/僕自身、デモに参加しながら、ペリー・コモショーやエド・サリバンショーを勉強していた。/それはテキサスハウスに集まる人達にも影響を与えていた。/反米と親米がゴチャゴチャの時代。/戦後の混乱から抜け出せないまま、メディアはアメリカを追って展開、発展、「テレビ時代」の幕が開いた時代でもあった。/写真家はフォトグラファー。図案家はイラストレーターと呼ばれるようになり、片仮名文化が一挙に花開き、やっていることは昔のままなのに、表現がアメリカナイズされていた」

 

 今回はテレビ放送黎明期のトキワ荘的存在だった、アメリカンなアパートの話でした。