(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(1)そもそも「ポピュラー(popular)」とは。
私は現在、本務校にて「ポピュラー・カルチャー論」と「広告文化論」という講義科目を担当しています。
今回はまず、春学期担当の「ポピュラー・カルチャー」について。
“popular”を英英辞書で引くと、➀liked by a lot of people、②done by a lot of people in a society, group etc.、③relating to ordinary people, or intended for ordinary peopleと出てきます。訳語で言えば「人気のある」「大衆的な」といったあたりでしょうか。
ポピュラー・カルチャーの類義語としては、fork cultureやmass cultureなどがありますが、fork cultureと言うと、一時の人気というよりは、その社会においてより基層にある文化、mass cultureと言うと、mass production(大量生産)・mass consumption(大量消費)と分かちがたく結びついたmass mediaによって媒介される文化といった意味あいが強くなってきます。もちろんこれらの語と重複する部分は大きいですが、ポピュラー・カルチャーと言った場合は、フォーク・カルチャーよりは流動的・可変的で、マス・カルチャーよりは多様性や、送り手・受け手間の相互作用性(interactivity)といったニュアンスを帯びてきます。
まぁ非常にザックリとした概念なので、何を論じても「ポピュラー・カルチャー論」になるわけですが、何らかの軸を設けずに14回の授業を行うのもアラカルトに過ぎるので、「アメリカ」にこだわって話を進めていければと考えています。もちろん、他の視点からポピュラー・カルチャーを論じることも可能だし、ポピュラー・カルチャーへのアプローチの仕方は人それぞれでいいのですが、戦後日本社会に与えたアメリカ(出自の文化)の影響力の大きさを考えれば、今学期の試みも無意味ではないと私は考えています。
もちろん、アメリカといっても漠然としており、アメリカ合衆国(USA)一つをとっても非常に多面的な存在です。「アメリカ」を指して、パックス・アメリカーナと言われるような国際的な外交上・軍事上の秩序をイメージする人もいれば、依然としてフォーディズムなど物質的な豊かさ、大量消費社会を想起する人もいる、GAFAなどのプラットフォームに代表される経済的もしくはテクノロジーでの先進性、基軸通貨としてのドルによる金融面での優位性、リングワ・フランカとしての米語のパワー、ハリウッドなどコンテンツ・ビジネスや音楽・スポーツなどエンタテインメント・ビジネスのメッカ……。もちろんさまざまな負の側面もありつつも、そしてかつてのソ連や現在の中国のようにライバル的な存在はありつつも、いずれにせよ、グローバル・スタンダードな地位を占め続け、とりわけ日本に対して「アメリカ」は、陰に陽に圧倒的な影響を及ぼし続けてきました。
それゆえ、日本の言説空間において、またポピュラー・カルチャー(のコンテンツ)において「アメリカとは何か」は大きなテーマとしてあり続けました。ただし、ここで考えたいのは、論壇や知識人の間での「アメリカ」問題というよりは、戦後日本社会におけるポピュラーなアメリカ性(Americanness)についてです。言語化されないけれども、より一般的な人々(ordinary people)の間で共有、共感されているアメリカ(的なるもの)についてです。何がアメリカかは言語化・明示化されていなくても、個別の事象に対して直感的に「アメリカ的/非アメリカ的」と弁別されていくような感覚・感性の集合的なありようです。このレベルのアメリカは、その捉えどころのなさゆえに、あまり真正面から論じられてきたとは言い難いです。でも、政府の統計が示すように、なぜこの社会において人々はアメリカに親近感を抱いてきたのか、そしてその傾向がますます強まっているのはなぜなのか(https://survey.gov-online.go.jp/index-gai.html)。
話が抽象的に過ぎるので、一つ具体例を出しておきます。
2024年の年頭、「街録ch」というYouTubeチャンネルにおいて、田代まさし氏がロングインタビューを受けています(以下、敬称略)。街録chのディレクターの方針として、ただひたすらその人の話を聞くというコンテンツなので、話の真偽など取扱注意の部分もありますが、田代のデビューまでの時期の回顧談に関しては、あえて歪曲や詐話を行う必然性もなく、おおむねそのまま受け取って差し支えなさそうです。
1956年に生まれ、新宿界隈で育った田代は、中学生の頃からディスコに通い始め、地元の先輩にソウルブラザーズ(クック・ニック&チャッキーズ)がいたこともあって、ソウルやR&Bなどブラック・ミュージックに魅かれていきます(ジェームス・ブラウンやジャクソン5の名があがっていました)。高校では鈴木雅之と知り合い、バンドを結成し、ソウルナンバーのカバーを始めます。そしてコンテストをきっかけにメジャーデビューを果たし、ブラック・ミュージックへのリスペクトで始めた黒塗りスタイルで人気を博しますが、ミンストレル・ショー(黒人に対する人種差別的色彩の強い軽演劇)を連想させるところもあったためか、ブラックフェイスの演出はやがてされなくなり、バンドも1980年代半ばから休止状態に入ります。しかし、ドゥワップなど往年の黒人コーラスグループのスタイルをふまえつつ、広範な人気を獲得したことで、1950~60年代のアメリカンポップスに造詣の深い山下達郎や大瀧詠一の音楽活動の地ならしとなったと田代は語っています。
岩手県に生まれ育ち、三沢基地等からのFEN(現AFN)でアメリカのヒットチャートを聴いて育った大瀧(1948年生まれ)よりも下の世代であり、占領期をまったく知らない田代もまた、不良たちの好むアメリカ由来のソウル・ミュージックにあわせてステップを踏んでいました。そのダンスにしても、当時のメディア環境においては、レコードジャケットなどの写真から踊り方を想像するか、新宿や六本木などのディスコなどで見様見真似するしか手段はありません。時あたかも、日本の基地から多くの米兵たちが出陣・帰還していたベトナム戦争期。その後、1970年代から80年代にかけて、往年のアメリカン・ポップミュージックが再評価される流れの中で、田代たちは人気者となっていきました。
今の大学生にとっては、鈴木雅之と聞いても紅白に出てくる大御所歌手の一人でしょうし、田代まさしは知らないか、知っていたとしても、薬物依存などによってトラブルを繰り返したこともあり、ネット上でおもちゃとなっている人、くらいの認識でしょう。昭和からの芸能人という括りの中で、まったくドメスティックな存在として受けとめられているのかもしれません。
しかし、その出発点までを遡っていくと、アメリカの音楽やファッションとの深い関わりがありました。それらをカッコいいものとして受容した、当時の若者たちの感受性はどこに由来するのか。そんな問題系について、おいおい考えていきたいと思います。
FEN話のついでに。ハム(アマチュア無線家)の方だろうか? さらにその奥に小さく見える(実際は120m)のはラジオ塔。電波で音声とばすといえば、スマホしか思い浮かばない(カーオーディオもスマホとBluetoothな)現在。
ラジオが聴ける機械ってあるじゃないですかぁ - 60歳からの自分いじり
初期の電リク(ラジオ番組に電話をかけ、曲などをリクエストして、流してもらう)は、電報だったという話も、どこかで聞いたが…。就職活動の面接の呼び出しが電報だった世代としては…。