60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

BLUESを弾かない者は人間ではなかった

エディ藩「俺は中華街育ちだけど、中華料理店ばかりが立ち並ぶ今と違って、世界各国の言葉が聞こえてくるような街でした。素敵なバーもあってまだ耳にしたことのない音楽が聴けてね。子どもながらに好奇心でバーのジュークボックスをのぞくと、ロックンロールやブルースが人気なのは感覚でわかった。基地のあった本牧あたりに行くとコカ・コーラとガソリンのは入り交じった匂いがして、それが俺にとってのアメリカの匂い。ウチも親父がハンク・スノウを始めとするカントリー・ミュージックが好きだったし、家にジューク・ボックスがあったから、集まってはダンスしたりしてました」

 

久保田麻琴夕焼け楽団)「--裸のラリーズの時、みんなでブルースを聴こうぜ、みたいな雰囲気にはならなかったですか?
 ない、ない。あ、1人だけ、多田(孝司)君というオリジナル・メンバーはのちにブルース系のミュージシャンになりました。彼は私より若くて、18歳くらいでラリーズに入ったんじゃないかな。ウエスト・ロードBBの山岸(潤史)とかも大学(同志社)の後輩なんですよね。まぁ、私は年齢のわりにはデビューが遅かった。逮捕歴がありますから。(略)

--関西ブルースの登場前では、やはり村八分の存在も大きかったと思うのですが、裸のラリーズとも関係が深いバンドでしたよね。
 1970年に入ってしばらくしてかな。もともとはラリーズのサブプロジェクトのように村八分というバンドがスタートしたんですが、結局、村八分として独立することになった。良いバンドでしたよね。同じ京都なので、コンサートで一緒になることはよくありましたよ。(山口)冨士夫は、まずGS(グループ・サウンズ/タイガース)でちゃんと訓練していますから、我々のようなアパート・ギタリストとは違って、すでにステージで大きな音で演奏していたわけです。差は1~2年だったかもしれないけど、スタート台が全然違う。エレキ・ギターをどうやって泣かせるかとか、よくわかっていた」

 

山口冨士夫がタイガース? とか思ったが、拾得とか磔磔とか、懐かしい。西部講堂もなぁ。いい特集でした。

 

朝イチで授業をやって、その足で東京へ。学会仕事など。

 

www.youtube.com

ギタリストではないけれど。GIRLFRIEND、いいバンドだと思っていたが、こういうことになっていたのか。なるほど。