60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(21)多様なアメリカ、多様な受容(ソウル、ブルース)

 

 1958年に渡米した小田実の放浪記『何でも見てやろう』は1961年に出版され、ベストセラーとなりました。また1962年に小田は『アメリカ』という小説も発表しています(下記の引用は、1976年刊角川文庫版『アメリカ』より)。

 

596p「そうだろう、いろんなアメリカがあるだろう。シャーロットのアメリカ、チャーレスのアメリカ、ボッブのアメリカ、ハイネマンのアメリカ、スコット氏のアメリカ、レットのアメリカ、ユリシーズアメリカ、リチャードのアメリカ、そしてたぶん、社長のアメリカ、私自身のアメリカ――それらさまざまのアメリカは、しかし、一つなのだろう。「ユナイテッド・ステーツ」という国名が暗示するように、それらすべてを一つにまとめあげているもの、その力がそこにはあるのだろう」

 

 これだけでは何のことやらでしょうが、『アメリカ』の主人公の私(川崎登)は26歳の商社マンで、会社からMBA取得のためにアメリカ南部の大学町へと送られました。シャーロットは恋人、チャーレスは同居人の画家、ボッブはゲイの友人、ハイネマンはシャーロットの元恋人(ユダヤ人、バイセクシャル)、スコット氏は裕福な実業家(ロータリアンでKKKの疑いアリ)、レットは友人(スコット氏の甥)で、以上いずれも白人。それからユリシーズは黒人の元教師、その子リチャードは川崎を「ジャップ」と呼びます。最後の社長は、川崎をアメリカに留学させた勤務先の社長。

 それぞれのアメリカ像があり、アメリカ観があるわけです。ジョン・ストーリーが、アメリカナイゼーションをめぐる議論の問題点として、「アメリカ文化を一枚岩的だと想定」する傾向をあげていますが、たしかに要注意(ジョン・ストーリー『ポップ・カルチャー批評の理論:現代思想カルチュラル・スタディーズ』小鳥遊書房、2023、403p)。

 アメリカ的なもの、ないしアメリカ産のものにしても多種多様であって、そのグローバルな受容のあり方も、それぞれの地域によってさまざまなローカル化のバリエーションズが生じるわけです。

 たとえば、アイルランドでのアメリカのポピュラー音楽受容を描いた、映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)。以下は、この映画をアイルランド英語の教材に用いたホームページからの引用です。https://eureka.kpu.ac.jp/~myama/worldenglishes/pdfs/the%20commitments.pdf

 

「映画の舞台は、アイルランドの首都ダブリン。労働者階級で音楽通の若者ジミー・ラビットは、バンド活動をしている知人のアウトスパンとデレクから彼らのマネージャーになって欲しいと頼まれる。彼は、かのローリング・ストーンズにも負けないビッグバンドのマネージャーになる ことを夢見て、新バンドのメンバーを集め始める。目指す音楽はソウルミュージック。ダブリンの労働者の魂を歌いあげるダブリンのソウル音楽である。やがてメンバーが集まり、バンド名を「ザ・コミットメンツ」 と決定する。コンサートを重ね評判を高めて、バンドは新聞の取材を受けるほどになる。しかし、バンドの内外で問題が起こり始め、徐々にバンド活動の雲行きが怪しくなっていき、ある日決定的な出来事が…」

 

 この「アラン・パーカーの『ザ・コミットメンツ』で語られる音楽との出会い」、さらにはアメリカ文化の受容という点から、もう少し詳しい紹介も引用しておきます。

 

272p「アイルランドの貧しい少年たちのグループは自分たちの持つ労働者階級的な感性を表現するのに相応しい音楽の形式を探し求めていたが、彼らはラジオから鳴り響くアメリカのポップ・ミュージックを、自分たちが求めるものとは違うときっぱりと拒絶していた。しかし、物語の序盤で、彼らはテレビでジェームズ・ブラウンによる彼のトレードマークたるソウル・アクトを目の当たりにする。演奏が終わると、グループのリーダーがすぐさまその出来事を、彼らのアイルランドの生活に根ざした言葉へと変換する。「俺たちはヤツみたいになるんだ。ヤツは俺たちお同じだ。アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ。もう一度言う。はっきり言うぞ。俺たちは黒人で、プライドを持っている」。仲間たちは驚いて静かに彼の言葉を繰り返すが、彼らの唇の動きが示すのは最後の決め台詞だ。「俺たちは黒人で、プライドを持っている」。メッセージはゆっくりと腹に落ちていくが、ここではもうひとつのアメリカ文化の借用が生じており、若者たちのアイデンティティの感覚に影響している。彼らは文化的回心の儀礼における司祭の役割を担わされている」(ロブ・クルス「アメリカの大衆文化とヨーロッパの若者文化」遠藤泰生編『反米:共生の代償か、闘争の胎動か』東京大学出版会、2021年)

 

 アイルランドの白人(労働者階級)たちが、ブラックミュージックに共鳴する。そうした事例は日本(の黄色人種)の若者たちの間でも、ヒップホップ・カルチャーのはるか以前からでも存在します。ジャズやロックンロールの黒人ミュージシャンたちからの影響(1950~60年代)に次いで、1970年、二人の高校2年生が手探りでブルースへと至ります。

 

24-5p「ぼくは中学時代、ピアノとオルガンとクラシックギターを少し習っていた。内田は子供の頃から兄ちゃんのギターをいじっていて、ビートルズストーンズ、ヴァニラ・ファッジ、クリーム、ジミ・ヘン、レッド・ツェッペリンテン・イヤーズ・アフターと聴くうちに、そのアドリブにある法則があるとことに気づいて、ロックのむこうにブルースがあることを知って、自己流で、勝手にギターでブルースを弾くようになっていた。/ぼくもクリームのレコードのライナーノートに「エリック・クラプトンはBBキングなどブルースの人たちの影響を受けて……」などと書いてあるのを見て、『なるほどなあ』と思っていた。/それで、ぼくが3コードのブルース進行を弾いて、それに乗せて思いつくまま内田がブルースを弾く、ということをやってみると、これがとても面白くて、時間があれば実習室に行って二人で合奏するようになった。/ちょうどこの頃から日本でもそれまでのBBキング、フレディ・キング、アルバート・キングといった有名どころのほかに、マディ・ウォーターズバディ・ガイエルモア・ジェイムスなどなかなか手に入らなかった黒人ブルースの日本盤がいろいろと出るようになって、内田はますますブルースにのめり込むようになった」(木村充揮木村充揮伝:憂歌団のぼく、いまのぼく』K&Bパブリッシャーズ、2012年)

 

 内田勘太郎木村充揮は、大阪市立工芸高校(最寄り駅は天王寺からJR阪和線で一駅南下)で同じコースにいました。内田は心斎橋に「「板根楽器」というブルース好きにはパラダイスのようなレコード屋を見つけ」、通うようになります。

 ダブリンのノースエンドならぬ大阪下町に在日コリアン二世として生まれた木村は、内田とともにブルースバンド憂歌団を結成し、家の工場を手伝いつつ、当時隆盛をむかえつつあった京都(洛北、京大西部講堂など)のブルース・シーンで活躍していきます。そして、シカゴなどのブルース・フェスにも参加。これも一つのアメリカナイゼーションであり、一枚岩ならざるアメリカ文化(の受容)の事例でしょう。

 

文学部裏のひっそり桜。

 

アメリカンフットボール、昨日の慶応大戦、3・4年のゼミ生7人中6名がstarting membersとして名前があり、もう一人も大活躍のよし。皆元気そうでで何より。