60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

原ヘルスのバブルスター

これはやっぱり買わざるをえないでしょう、読まざるをえないでしょう
コメントせざるをえないでしょう、原宏之著『バブル文化論』慶應義塾大学出版会。


161p「《おたく》は90年代的なインターネット的なコミュニケーション形式を感覚的に先取りしていた者たちである。同時に、「個性的」であることを(否定的・社会圧力的に)選択した者たちでもあるだろう。《渋谷系》は、インターネット前夜のアナログ・人的ネットワークの頂点で、終焉を見ずに「現在」の信を保持しながら祝祭に参加できた者たち、「定番」を(商業・消費者的に)好んだ者たちである」


渋カジ(族)のことを、斎藤環の「渋谷系(自分探し系)/原宿系(ひきこもり系)」にのっかり
渋谷系」と言ってしまうことの問題はさておき、言いたいことはよくわかります。
ただし、80年代論としては、この本で取り上げられている事例よりは、
たしか99年にNHKETV特集として放送した「オンリーイエスタデー(1)80年代心はどこへ」
((2)はたしか「ユーミンを聴いた男たち」)での、田中康夫宮崎学・EVEという並びの方が、
なんかしっくりきます。(東京・トレンド・グリコ森永事件・地上げ・ノーパン喫茶・AV‥)


「バブル文化」論(著者の規定では、1986〜93年頃の時代精神みたいなもの)ってのも、ん〜む。
かつての別冊宝島のように、80年代はスカだったで済ませるのもなんですが
とんねるずやトレンディドラマが、人々の意識を根底から転換させたかっていうと、ん〜む。


あれだけ大騒ぎしたのに、根本では何も変わらなかったディケードとしての80年代の果てに
基本的には、もう明るい未来や新しい展開など何もないことが徹底的に自明となり
人々にそれが共有されていったという意味で「90年代というラディカルな転換点」があった、
という議論の方がしっくり来ます。泡と消えてこそバブルだという気はないですが、
泡よりも、泡をはらみはじめた70年代や、泡なき後の空虚を抱えた90年代の方が、
より大きな変化の潜んでいる、より深く考察されるべきディケードだと思いますが。