60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

つかしんの由来は、塚口新村

川本三郎『郊外の文学誌』(新潮社、2003)を読んでいる。
あいかわらず、あっさりとしているが、適度にコクがあり、くどくないが、味わい深く…
みたいな文章。こういうのが「都会的」ということなんだろうなと思うが
生まれ育った阿佐ヶ谷は、当時まだ郊外の面影を残していたとか。北杜夫の青山もそうだとか。


ここで語られているような、駅前=中規模な公共圏(?)、の喪失を憂うのが北田暁大氏。
『思想地図β』のショッピングモール特集、拾い読み。
別件で『広告の誕生』を読み直しているので、なかなかにおもしろい。
パサージュからショッピングモールへ、ってか。
たしかにイオンじゃ、夢とかファンタスマゴリ(幻像)とかいわれても…
夢がすべて仕組まれているというのも夢のない話(まぁ、イオンは夢というより、日常か)。
だけど、それはそれでいいんじゃないの、という気もしてくる(東浩紀氏的?)。
子どもたちはディズニーもイオンも好きだし、とりあえず子育て楽させてもらうものはアリ
親業もいろいろしんどいんだから外野がとやかく言うな! ってあたりが争点なのかなぁ。


単身者、ないし子連れ以外の者を、ショッピングモールは排除しているといえば、そうかも。
でも、正月行ったフードコートの窓に向いた席には、一人で新聞読んだり、勉強したりな人々。
一人でいたいけど、孤独は感じたくない人たちに、ショッピングモールは優しいような気もする。
要は使いようだし、多くの人が、それなりの使い勝手をそれぞれに見出しているのでは。


自分が子持ちということもあるけれど
私立大学勤務という存在が意識を規定するところもあって、子連れ偏重社会バンザイ!
だったりする。では子どもをイオンやディズニーに託してもいいのか!
って話になるかもしれないが、そこまで大げさな話じゃないんじゃないの、という気もしてくる。
ディズニフィケーションとか、ショッピングモーライゼーションとかさぁ。
誰も四六時中TDLやイオンにいるわけじゃなし、あれはあれでひとつの世界、ってことで。
その世界の外に、そうではない世界が広がっている(ことは自覚している)がゆえの、あの世界。
そのへんの切り替え能力を、けっこう信用している(あぁ、ゴフマニストだな、私は)。
なんちゃってディズニーランドがそこここにあったり、電飾イエが増殖しても、
目を鯨にするこたぁないよなぁ。とにかく18歳人口、増えてくれ!


といいながら、自分もセゾニフィケーション(セゾン化)とか昔言ってたような気もする。
でも、あれはセゾンが宅地開発までやってたからだし、と言い訳。
以前、その京都某住宅地から通ってきている学生のレポートに、
ライフスタイルを相互に監視する社会にいま私は住んでいる、みたいな文言があった。微苦笑
でも、そこで子どもが生まれ育ち、本務校に来てくれるんだったら、御の字。
セゾニフィケーションとか書いてた頃は、会社員だったし、単身者だった。人間いい加減なものだ。


土曜日というのに、出勤。北田氏の次は、加藤秀俊のことを考えねば。
もろもろ忙しいのに、さらに別件、書評の仕事をうける。
最近出て、おもしろそうに思っていた本だったので。


ワーカホリカナイゼーション、コドモセントリズム、ジュケンセイハカミサマナイゼーション…