60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

 

 1977年、ソニーのラジカセ「MARKⅡ」の広告が、東京コピーライターズクラブのTCC賞を受賞しました。

 今だと、まずラジカセから説明する必要があるかもしれません。ラジオ&カセットテープ、の略でラジカセ。電波を受信してラジオが聞けて、磁気テープも再生できる一体型のオーディオ機器とひとまず理解しておいてください。

 キャッチフレーズは、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」。また、そのセールスマニュアルには「青春の夢は、ふたたびロックロール」「あの熱狂が欲しい。あの底抜けに明るいリズムが欲しい。あの陽気で、はつらつとした踊りが欲しい。ソニー・マークⅡ」などとあります。これらを書いたコピーライターは、1947年広島市生まれ。ものごころついた頃には占領期も終わり、黄金時代のアメリカを全身に浴びて育った世代なのでしょう(海野弘『黄金の50年代アメリカ』講談社現代新書、1989年)。

 この「ジルバ」ですが、もともとは“jitterbug”。戦前からアメリカで流行していたダンススタイルです。

 

329p「「一般の日本人と米軍との親善交換パーティを行いたい」/という名目で、『セブン・マイルズ・ハウス』にマスコミを集め、ジッター・バッグを披露公開した。昭和二一年三月九日。じつに、終戦のわずか七か月後である。ジッター・バッグは、すぐに呼びやすいジルバという和製英語に名を変えて。爆発的に広がっていった。/その後サンバ(昭和二四年・美松ダンスホール)、マンボ(昭和二九年・松竹ダンスホール)、ロックン・アンド・ロール(昭和二九年・日本劇場)、チャチャチャ(昭和三一年・新橋フロリダ)、ツイスト(昭和三六年・ミス東京)など、概観するだけでも、そのまま戦後のダンス史を成している」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)。

 

 キューバ生まれのマンボにしても、中南米というよりはアメリカ由来のものとして意識されていたかもしれません。

 

116p「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年)。

 

 そして、「ジャック&ベティ」は、1948年刊行開始の中学校向け英語教科書Jack and Betty English Step by Step(開隆堂出版)からきています。紀平健一「戦後英語教育におけるJack and Bettyの位置」『日本英語教育史研究』1998年3巻によれば当時圧倒的な採択率を誇っていたとか。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/hisetjournal1986/3/0/3_169/_article/-char/ja/

 オールディーズブームのきっかけとなった映画「アメリカングラフィティ」の日本公開(1974年)から、ウォークマンの発売(1979年)までの間、ラジカセの周りで踊る若い男女(の表象)が、世に溢れていたわけです。1960年代初頭に流行したツイストとなるとソロダンス(の屋外での群舞)というイメージがありますが、ジルバはダンスホールでのペアダンスが基本なのでしょう。いずれにせよ、ベトナム戦争の泥沼にはまり込む前のアメリカです。

 その頃のアメリカを1977年の日本が懐かしむという構図が、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」という広告から浮き彫りとなってきます。

 

www.youtube.com

 

 今日は講義、院ゼミ、会議など。