60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

 

 占領期のアメリカの文化的影響に関して、GHQ民間情報教育局(CIE、Civil Information and Education Section)の存在は、土屋由香・吉見俊哉編『占領する眼・占領する声:CIE/USIS映画とVOAラジオ』(東京大学出版会、2012年)をはじめ、近年研究の進展をみていますが、まだなかなかその全貌がみえてこないところがあります。

 

108p「占領期にGHQ民間情報教育局(CIE)の肝煎りで積極的に展開された公民館運動は、戦後民主主義の実験的な拠点となったもので、大島渚の『白昼の通り魔』(一九六六年)が、公民館を戦後民主主義の挫折のシンボルとして苦く郷愁を込めて描いたことが思い出される」
108-9p「短編教育映画は、占領期のCIE映画(ナトコ映画)以来、市民的公共圏を形成するためのメディアとして大きな役割を担ってきた。日本製CIE映画の『わが街の出来事』」(シュウ・タグチ・プロ、CIENo.189、一九五〇年)は鎌倉市のゴミ問題を住民たちが民主的な手順を踏んで解決するフィルムで当時好評を博した」
(中村秀之「原水爆、家長、嫁:『生きものの記録』(一九五五年)における「私」の自壊」ミツワ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

 ナトコ映画は、映写機(National Company製)の名称から。多くの社会教育的なフィルムが作られ、全国を巡回していきます。また、人々への啓蒙・啓発という点では、CIEはPR(パブリック・リレーションズ、広報活動)の普及にも足跡を残しています。(https://www.jsccs.jp/publishing/files/19th_004.pdf

 それから図書館事業。1945年の早々から、CIEは動き始めます(マイケル・K・バックランド『イデオロギーと図書館:日本の図書館復興を期して』樹村房、2021年)。

 

67p「CIEは、内幸町の当時放送会館と呼ばれていた。旧NHKの建物を接収していた。11月15日会館の108号室にパンフレットを中心とした小規模な図書館が開館した。翌1946年3月CIEは日比谷にあった日東紅茶の喫茶室を接収して、図書館が移転し、利用者中心のサービスを開始して瞠目され、盛んに利用された。都内ばかりでなく、地方からの利用者も少なくなかった。その後、CIEは人口20万以上の17の市にインフォメーション・センターを設置する方針を立て、着々と実行に移していった」(今まど子「CIEインフォメーション・センターの図書館サービスについて:九州編」図書館学会年報41-2、1995)https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajsls/41/2/41_67/_pdf/-char/ja

 

 たとえば、2024年3月15日付『朝日新聞』「語る―人生の贈り物 編集工学者・松岡正剛5」には、中学生時代(松岡は1944年生まれ)に「京都の「アメリカ文化センター」に行って、向こうの新聞を見た。ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストとか。それがものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心をもちました」とあるのも、この流れです。また、グラフィックデザインの領域で活躍したアートディレクターなどについて調べていると、このCIEの図書館などで洋雑誌をみて勉強したという証言をよく見かけます。

 CIEとは関係ないですが、以下の堀内誠一氏の回想も大変興味深いです。堀内誠一は戦後すぐに伊勢丹宣伝部に入り、その後ファッション関連のグラフィックデザインを手がけ、最後は平凡出版(現マガジンハウス)にてさまざまな雑誌の創刊に関わり、日本の今日的なファッション誌のデザインの原型をつくった人として有名です(絵本画家としても有名で、代表作は「ぐるんぱのようちえん」)。

 

72p「伊勢丹の建物は戦災をまぬがれたビルの数少ないひとつでしたら、三階から上は進駐軍に接収されていました」
72-3p「沢山あったのは、倉庫に積まれた、戦前戦中のさまざまの資料で、広告関係の物置には戦前の『フレンチ・ヴォーグ』や『イリュストラシォン』誌や美術書、図案集の類いが、洋服部や呉服部関係にはスタイルブックや意匠図案、柄見本などが山とあり、ある倉庫には戦前のマネキン人形置場というか捨て場で、ジョセフィン・ベーカーまがいの金塗りの人形、アーキペンコの彫刻のような流線型の時代離れした人形たちがほこりをかぶっており、それはSF映画スター・ウォーズ』の中古ロボットの奴隷船のなかのようでした。エンサイクロペディアのなかに住んでいるようなもので、営繕係の人を別とすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。」
73-4p「新しいデザインの資料、外国雑誌もふんだんに取り寄せられて、『エスクワイヤ』誌が新進デザイナーのポール・ランドの手で誌面が一新されるのを見るなど体験でき、進駐軍の見終わったパルプマガジンをドサッともらってくることもできたのです」
堀内誠一『父の時代・私の時代:わがエディトリアル・デザイン史』ちくま文庫、2023(原著1979年)

 

 新宿伊勢丹は、1933年にオープン。戦前は「モダン」の震源地として、戦後はファッションの伊勢丹として名を馳せ、1960年代ティーン向けのコーナーも充実していました(高野光平・難波功士編『テレビ・コマーシャルの考古学:昭和30年代のメディアと文化』世界思想社、2010年)。いつの間にか、三越伊勢丹となってしまいましたが…。

 

 

立て看文化、残ってほしいもんだ。

 

シナン・アラル『デマの影響力』ダイヤモンド社、2022