60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(4)FENを聴いた人たち

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(4)FENを聴いた人たち

 

 戦後日本の音楽シーンに対して米軍ラジオ放送FEN(極東放送網、現AFN)が与えた影響については、多くの人々が語っています。大瀧詠一はっぴいえんど小林克也(1941年生まれ、福山で育ち、岩国基地からの放送を聴く)などなど(塚田修一「米軍基地文化としての米軍ラジオ放送FEN:音楽関係者の聴取経験と実践を中心に」『三田社会学』26、2021年参照)。FEN村上春樹作品にもよく出てきます。しかし、以下の「村上RADIO」に関しては、どうなんでしょう。

 

https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/index_20190616.html
僕が同時代的に初めて聴いたビートルズの曲は、実はこの「プリーズ・プリーズ・ミー」なんです。僕はこのとき14歳くらいだったんだけど、たしか米軍放送のFEN(Far East Network)で聴いて、「これはすごい」と一発で思いました。何がどうすごかったか?それはよくわかりません。
そのときもよくわからなかったし、今でもまだよくわからない。ただ「この音楽の響きはこれまでにはなかったものだ」ということだけはきっぱりと確信できました。それが僕のビートルズの音楽に対する第一印象でした。「これから新しい世界が始まるんだ」みたいな、わくわくした気分がありました。それは、ビーチボーイズの「サーフィンUSA」を初めて聴いたときにも感じたことです。実際に時代が大きく動いていたんでしょうね。

 

 阪神間で育った村上少年。14歳と言えば、1963年あたりでしょうか。Wikipediaには「FEN切り替え当初の1952年7月時点では、東京、大阪、名古屋、美保、小倉、福岡、大分、熊本、佐世保、八戸、仙台、札幌の12局で構成されていたが、増減を繰り返し、1955年の21局体制を経たのち、1958年3月時点では、東京、名古屋、福岡(板付)、岩国、千歳、佐世保、芦屋、三沢、稚内の9局で放送されていた」とあります。この芦屋は、福岡県遠賀郡芦屋町のことなので、短波放送で聴いたということなのでしょうか。

 まぁ、それはおいといて、戦後ある時期までは大阪でも米軍放送が聴けたことはたしかでしょう。

 

82p「戦争が終わった昭和二十年(一九四五)九月から進駐軍の放送が一般の日本人にも聴けるようになりました。コールサインはWVTRが東京で、WVTQが大阪やったかな。進駐軍の放送で、アメリカの音楽がじゃんじゃん入ってきました。私と同年配の少年たちの中には、進駐軍のラジオを通じてジャズに親しんでいた人も多かったみたいです。みんな進駐軍放送でジャズに開眼します」
91p「昭和二十八年(一九五三)、心斎橋の百貨店のそごうが進駐軍に接収されて、PXになって、兵隊たちの買い物の場所になってました。サンフランシスコ講和条約が発効して、そごうが久しぶりに開業します。そこにレコード部ができてね、アメリカのレコード輸入して置いてたんです」(肥田晧三『再見なにわ文化』和泉書院、2019年)

 

 さすが「なにわの生き字引」、肥田節炸裂といったところでしょう。当時の大阪ミナミのキャバレー、ダンスホールにビッグバンドが出演していた様子も語られています。

 あと、本籍ジャガー星という設定のジャガーさんも、千葉で育った少年時代

 

32p「家の前の田んぼが凍ったらそこで下駄を履いてスケートの真似事みたいなことをして遊んだり、山で栗や柿、あけびや桑の実を採って楽しく暮らしていた。しかも当時のジャガーFEN(現AFN)という米軍のラジオ放送を聴くことに熱中した。そこからアメリカの最新の洋楽が流れてくる。見よう見まねでハーモニカやアコーディオンを触り出したのもこの頃だ」(『ジャガー自伝:みんな元気かぁ~~い?』イースト・プレス、2021)

 

だそう。70年代グラムな方かと思っていましたが、50年代ポップスなどが原風景なのかも。ジャガーさん喜寿は越えて、もうすぐ傘寿のご様子。そんなお祝いの慣習、ジャガー星にはないのだろうけど。

 

 

今日も授業準備や面談など。