60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ

 

 「半グレ」という言葉を知っていても、グレの語源である「愚連隊」を知らない人もいるかもしれません。愚連隊という言葉自体は戦前からあったようですが、より社会的に広まったのは戦後の混乱期でした。闇市などグレイゾーンな領域を、組織というよりも個人の腕力や才覚で仕切っていた、今の言葉で言えば「反社会的勢力」でした。なかでも渋谷を拠点に、トレードマークの白いスーツ姿で名をはせた花形敬は伝説的な存在として語り継がれています。

 

172p「アメリカ軍が代々木に、イギリス連邦軍が恵比寿にそれぞれ進駐するにおよび、その周辺にいかがわしい職業の女性が増加し、彼女らの手を通じて、アメリカの物資も次第にこれらのヤミ市へ流れるとともに、一方、配給機構が整備し、或いはアメリカ軍からの食糧放出によって、区民の食生活が一応安定してくると、これらの露天商人たちは次第に焼けあとの空地一帯に、長屋式のマーケットを作り始めたのである」
262p「花形は宇都宮刑務所で離婚を経験する。/「くるみ」で千鶴子と一緒に働いていた池田の表現によると、彼女はエリザベス・テーラーを日本的にしたような色白の女性で、背は小柄だがバストとヒップが張り出していてコケットリーがあり、彼女がついた客のなかには一万円、二万円と法外な勘定をとられても、またやってくるものがいたという。/池田は「くるみ」で働くうち、「ジャポック屋」と呼ばれていたJAPOC(米占領軍)ナンバーの米車を扱うディーラーと組んで、売り手と買い手のあいだの橋渡し役をするようになる。当時、米軍の平均的な値段は一台三千五百ドル前後で、商談がまとまると双方から百ドルの報酬がもらえた。/そういう副業の関係で、「くるみ」には日系二世が何人か客として出入りしていた。その中のフタガミという将校が千鶴子と愛し合う仲になり、結婚話へと進んだのである。/そのためには花形と千鶴子が離婚しなければならない」(本田靖春『疵(きず):花形敬とその時代』ちくま文庫、2009年)

 

 花形の所属した安藤組率いる安藤昇も「渋谷の米軍ハイツは俺のシマだった」と語るような人物で(『日出づる国の米軍』メディアワークス、1998年)、のちに俳優に転身しています

 それはさておき、アメリカ軍が現・代々木公園のワシントンハイツに入る一方、英連邦軍は今の防衛装備庁艦艇装備研究所であるエビスキャンプに入りました。主力はオーストラリア軍だったとか。1946年5月5日付『読売新聞』には「呉進駐の濠洲軍部隊一千名は三日夜呉を出発、東京に向ひ宮城一帯の警衙に就く予定である、なほ英聯邦軍の東京司令部は日本郵船ビル及び元海軍大学校内におかれる」とあります。日本郵船ビルは日比谷・有楽町にほど近い丸の内二丁目、海軍大学校は恵比寿の隣の目黒駅近くの上大崎にありました。エビスキャンプにいつ入ったのかはまだ調べられていませんが、英連邦軍の東京における拠点は、城南の恵比寿~目黒界隈だったようです。『重ね地図シリーズ東京 マッカーサーの時代編』(光村推古書院編集部、2015年)には、目黒駅付近に「英連邦軍東京病院」「バックナーアパート家族宿舎」とあります。バックナーとは、沖縄戦で戦死したサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将(米陸軍)由来でしょうか。このあたりもまだ調べがついていません。なお、目黒雅叙園も接収され、駐留軍将校宿舎となっていたとか。

 

222-3p「一九四八(昭和二三)年、松尾は中華料理店中華殿を全面改築し、ダンスホールを備えたハイカラなホテルを建設した。「ホテルが有名になったのは、進駐軍がホールを使い始めてからでした。進駐軍の軍人さんの社交場になっていたんです。あのころは、帝国ホテルと並び称されるほどの評判のホテルでした。おかげでホテルは、進駐軍からホールや部屋の賃貸料がどんどん入るようになり、レストランの売り上げもケタ違いでいた。なにせ終戦間もないころはハイパーインフレで、円なんか紙屑(かみくず)同然。そんなころ、進駐軍の支払いはすべてドルでしたから、当時にしてみれば、大変な儲けだったんです」/…やがて雅叙園観光ホテルは、日本におけるアメリカンジャズの発祥の地と呼ばれるようになる」(森功許永中 日本の闇を背負い続けた男』講談社+α文庫、2010年)

 

 話を恵比寿に戻して、エビスキャンプからJR線恵比寿駅に向かうと「アメリカ橋(恵比寿南橋)」があります。エビスキャンプとなにやら関係ありそうにも思いましたが、wikipediaによると「もともとはアメリセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として1906年明治39年)に現在地に架設したことが愛称の由来である」とのこと。

 日本麦酒醸造会社の工場(のちのサッポロビール恵比寿工場)が竣工したのは1887年。そのヱビスビールは、1904年のセントルイス万国博覧会にてグランプリを獲得したのだとか。直接アメリカ橋とは関係ないのでしょうが、戦前のアメリカニズムの盛り上がりを、こんなところでも感じられます。

 なお、先ほどの新聞記事に「呉進駐」とあるように、英連邦軍は中国・四国地区の武装解除などを担当(千田武志『英連邦軍の日本進駐と展開』御茶の水書房、1997年)。「はだしのゲン」に、ゲンが広島市内で米兵に捕らえられ、米軍基地内にて取り調べを受けたシーンがあるが、時期的には英連邦軍でないとおかしい、という説があります(未確認。はだしのゲン、部屋のどこかに全巻揃えてあるはずなので、探索してみます)。いずれにせよ、当時それだけ「進駐軍・駐留軍=アメリカ」というイメージが強かったことの証左ではあります。

 

 

娘の通う大学の元学長さんの本ということで、パラパラめくってみる。
大学院生時代、獣医師の資格を持っているということで「ぼくは、大学がある堺市内の動物病院で「動物のお医者さん」として稼ぐことにした。堺は、商人と刃物と千利休の町だ。そして、どういうわけか闘犬を飼う人が多い町でもあった」とある。
いや、大阪府立大(現大阪公立大)近くで育った者にとって、「どういうわけか」とはならない。
高校時代、郷土史研究の部活のようなことをしていて、旧堺市内(土居川=環濠内)をフィールドワークと称してうろついていたが、今はそうは言わないのだろうけど「組事務所」前を通る際、「兄ちゃんら、ちゃんと勉強してるかぁ⤴」とやたらと声かけられた(NHK大河ドラマ黄金の日日」の頃)。
もっと南に行くと、軍鶏(しゃも)を闘わせることになる…

 

今日はZoom面談、会議など。