60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(補遺の補遺)アメリカ(55)アメリカ産「テレビ映画」について&恵送御礼

 

富豪刑事』がないじゃないか~とか、突っこもうとしたが、ちゃんとコラムで拾っている…。さすが過ぎます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(55)アメリカ産「テレビ映画」について

 

一旦区切りをつけたはずが、またぞろ、だらだらと。備忘代わりに抜き書き2点。

 

荻昌弘「TV映画を憂う:とくに最近のアメリカ映画の氾濫について」1961年9月号『CBCレポート』

7p「なぜ、日本のテレビ界は、今日、このような外国製TV映画の攻勢を迎えねばならなかったのであろう?/その第一の理由は、いうまでもなく、急激に誕生し全国に拡散した日本のテレビ局の、自主的な供給能力が、需要に追いつかなかったためであろう。第二には、これまたいうまでもなく、米国の経済的優位性が、優良な品(TV映画)を、相対的安値で放出し得る能力を所有していたからだ。/この二つの経済的理由を、芸術的側面から照らし直せば、第三に、日本製テレビ番組が、外からの攻撃に対してあまりにも脆弱なほど“つまらなかった”こと、そして第四に、要するにアメリカ製TV映画が、“じつにおもしろく”巧く作られていること――が理由だ、ともいいうる。そして第五、日本における外国テレビ映画の猖獗は、日本のテレビ局が(半ば英断、半ば機械上の必要に迫られて)早くも、そのセリフを日本語化したことに、大きな理由があった、と考えられる。さらに第六の理由として、私たちは当然、この戦後の、日本人のアメリカに対する心理的接近感と、憧憬も、あげなければなるまい」

8p「61年の五月現在、東京のテレビ五局は、週合計六十八本の外国テレビ映画を放映しているという(東京新聞)。数年前、KRTから、はじめてTV西部劇「カウボーイGメン」が送られたころ、多少その内部に立ち合ったことのある私は、ある感慨を持たずに今日のこの隆盛を眺めることはできない。単に本数の点だけではなく、また作品の質のうえでも、今日のはなばなしさは、とうてい数年前に、考え得られなかったものだからである」

 

松山秀明『はじまりのテレビ:戦後マスメディアの創造と知』人文書院、2024

77p(『パパは何でも知っている』)「このようなアメリカ民主主義に根ざした明るく楽しい中流家庭の生活は、新しい家庭のモデルとして日本社会として日本に受容されていく。敗戦後の日本社会にとって、「家族の民主化」が急務であったが、そうした家父長家族から夫婦家族へと転換を迫る一翼を担ったのが、アメリカ製ホーム・ドラマであった。外国製テレビ映画によって日本人は初めて今まで知らなかったアメリカ的生活の内側を見たのである。とりわけアメリカ製の家族劇は、近代的個人主義を土台にして、個我の主張と相互の尊重を基本とする。そもそもホーム・ドラマという英語は存在せず、近代的な感覚を日本人の心に引き起こすことを期待した和製英語独特の響きが、アメリカへの憧憬を示していた。こうした、アメリカの理想化されたホーム像が、日本の連続ドラマ、とりわけホーム・ドラマとして引き継がれていくことになった」

135-6p(バラエティ番組、クイズ番組など)「この背後に、アメリカの影がちらついていたことである。多くの放送史が記述するように、敗戦後、GHQによるマイクの解放によって日本の民主化が図られた。戦後すぐに始まったNHK『街頭録音』や『のど自慢』に限らず、クイズ番組もまた、視聴者参加という形でその役目を担ったことはよく知られている。『話の泉』はInformation Please、『二十の扉』はTwenty Questions、『私は誰でしょう』はWhat’s my nameというアメリカの番組に範をとるよう、民間情報教育局(CIE)ラジオ課による指導があった。丹羽美之(2003)が指摘するように、そもそも日本版のクイズ番組とは、ラジオの民主化という歴史社会的な文脈のなかでCIEがNHKに助言して実現したものだった。ゆえに、「クイズ番組そのものが多分にアメリカ的に匂いを持つもの」(日本クイズクラブ同人編1954:189)だったのである。/このラジオのバラエティに潜んだアメリカの影が、テレビ時代になってなお、バラエティの製作現場に影響を与えつづけたことは、重要な史実である。クイズ番組の人気は、一九五五年を境にラジオからテレビへと移ったと指摘されるが(滝沢正樹・西野知成・石坂丘1966)、このなかで初期テレビのバラエティは、CIE指導下のラジオ時代のバラエティ観を無意識に引きずった。たとえばNHKジェスチャー』や『私の秘密』などが、いち早く視聴者参加の形式となったのは、その証左だろう。/それだけではない。これから本章で見ていくように、日本テレビ『何でもやりまショー』、そして『光子の窓』といった音楽バラエティもまた、多くがアメリカからもってきたアイディアを、日本で開花させたものだった。これはアメリカのテレビ界への憧憬とともに、バラエティというジャンルが、他国のものを真似しやすかったという事情もあったに違いない。さらに初期テレビのバラエティに出演していたのは、米軍キャンプなどでジャズバンドをしていた者も少なくない。それゆえに、初期バラエティのクイズやミュージカルといった表現には、多分にアメリカからの影響を見ることができる」

157p(1964年~『光子の窓』、井原高忠)「そもそも井原が渡米したのは、NBCの特番『ジャパン・スペクタクル』のスタッフの一員として同行したためであった。当時、NBCはロサンゼルス郊外にカラー用の大テレビ・スタジオを建設したばかりで、そこで井原は本場アメリカのショー・ビジネスの実態を目撃する。「とにかく生まれて初めてでしょ、当たり前だけど。もう、死ぬかと思ったね、あんまり嬉しくて」(井原高忠1983:69)。井原はこれまでの自分の演出が映画などから作り上げられた「イメージ」に過ぎないとショックを受ける(小林信彦2006:63)。本番になると、滑車のついたセットが出ては消え、息もつかせぬ演出方法だった。「いったいいかなるところからこの演出方法は生まれたのか」。それを知るため、井原はどうしてもブロードウェイへ行く気になる。ロサンゼルスには一週間の出張だったが、「もう一生アメリカに来られないかもしれない」と思い、ニューヨークへ向かった(井原高忠1983:71)。/ニューヨークに何のあてもなかった井原だが、偶然、CBSに勤める女性と出会う。そこで『江戸・サリバン・ショー』や『ペリー・コモ・ショー』の現場を見学させてもらい、「あらゆる物がブロードウェイの演劇やミュージカルから来てるということ」(井原高忠1983:77)を悟る」