60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(補遺の補遺)アメリカ(56)1968年、日本でのスティービー・ワンダー。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(56)1968年、日本でのスティービー・ワンダー

 

 元編集者(婦人生活社→平凡出版・マガジンハウス)の椎根和さんの『“オーラな人々”』(河出書房新社、2009年)より。

 

195-6p「モーテルという形式のドライブインが、日本にはじめてオープンしたのは一九六八年。二年前に開通した有料道路、第三京浜沿いにできた。モータリゼーションは若いサラリーマンにも、自動車を持てる希望をあたえた。ホンダが、三十一万三千円でN360を発売したのは、一九六七年の春だった。マッチ箱スタイルで、まだ冷房装置はついていなかった。/世界初のポータブル・カセット・レコーダーがAIWAから、三万千八百円で売り出された。/ぼくは同じ編集部の石川次郎の“エヌサンビャクロクジュー”で、毎晩、第三京浜を走り、横浜中華街西門にあった「コルト45」というソウルスナックに通った。客は、本牧にあった米軍キャンプの黒人兵と、彼らを目あてに集まる日本娘とハーフの女のコばかりだった。スナックといっても客席はなく、キラキラ輝くジュークボックスが、電装王様のように、なにもない空間に鎮座していた。黒人兵たちは、いまのラップファッションのような、だらしのない格好ではなく、全員が、フェルト帽子に、三つ揃いスーツ。パンツは、まだダブダブではなく、トレアドールパンツ風に、足元にゆくほど細くなっていた。シャツは、玉虫色の、いわゆるヒカリモノ系の生地が多かった。シューズは皮のタッセルスリッポンが粋にみえた。/飲み物は、彼らが“アカダマママ”といって注文する、サントリー赤玉ポートワインをラッパ飲みしていた。ジュークボックスにおさめられていたのは、日本で一番早く、黒人兵たちが持ち込むモータウン系のR&Bのドーナッツ盤ばかりだった。テンプテーションズの「マイガール」、スティービー・ワンダーの「フィンガー・ティップス」、マーヴェレッツダイアナ・ロスシュープリームス、マーサとバンデラスの「ジミーマック」が、いつも流れていた。自分の好きな曲が、流れ始めると、私服制服の彼らは、ソウルステップというダンスを踊った。ぼくと石川は、そのステップを憶えようと、早朝までねばった。ぼくが一番好きだったステップは、ソウルチャチャだった。マンボと一緒に生まれたカリブ海のダンス音楽を、米国の黒人たちが、自分たちの音楽と合体させた。このチャチャのリズムは、現在も日本サッカーの応援歌として生き残っている。そして、R&Bは六〇年代初頭に出現した。それまで白人系シンガーが、甘ったるい綿菓子みたいに、“ハート、ハート”と歌っていたものを、ソウルミュージックは“ラブ”という最終的言葉にかえた」

 

 そうしたソウルミュージックも(ビートルズでさえ)、モータウンレコード社のビジネスにのみ込まれていきます。

 

197-8p「一九六八年の冬、そのモータウン・レビューが、在日駐留米兵の慰問に来る、という噂が流れた。それもテンプテーションズ、マーサとバンデラス、スティービー・ワンダーの組み合わせだ、と発表された。スティービーは、リトル・スティービーといわれ、まだ十七歳になったばかりだった。米軍関係に強かった石川が、立川基地公演取材の話をきめてきた。/N360に乗って、立川基地に行った。モータウン・レビューは、立川基地の屋内バスケットコートで行われた。…観客は、全員、黒人兵とその家族だった。会場にもぐりこんだ日本人は石川とぼく、キョードー東京の創業者というより前年にビートルズ来日を実現させた呼び屋、永島達司、ソウル音楽評論家、R&Bレコードのライナーノーツを、独占的に書いていた桜井温の四人だった」

 

 当時の少年スティービーには、その後ゴッドファーザーとなっていくオーラはなかったとか。

 この本には、渋谷で古本屋めぐり中の植草甚一と出会った話もあります。

 

97-8p「石井書店は、道玄坂を上って、最初の横丁を右にまがり、麗郷という台湾料理屋の反対側の路地を入ったところに、闇市あとの空地とも道路ともつかない妙にほのぼのとした空間にあった、つぶれそうなバラックの店舗が、三軒ほど並んで、その中央に書店があったような気がする。両側はなぜか米軍払い下げの中古衣料品店で、目玉商品としてリーバイスの中古ジーンズなどをぶら下げていた。東、南、西側にはビルの殺風景な背中があった。こんな所にやってくる外国人の姿は、あまり見かけなかったが、石井書店の店先には、パルプマガジンアメリカン・コミックスの古本が乱雑に積まれていた」