60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(2)「奥さまは魔女」以前・以後

【緊急告知】4月4日にゼミ卒業生の堀井綾香監督作品が上映決定!

第七藝術劇場/作品/MOOSIC LAB 2024

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(2)「奥さまは魔女」以前・以後

 

 前回述べたように、この春学期は「ポピュラー・カルチャー論」という講義科目を担当しており、その補遺というか、授業にあまり組み込めなかったネタを、備忘のために書いていくシリーズの2回目です。

 テーマはアメリカ産のテレビ番組に関してなのですが、あいにくこちらは1961年生まれで、物心ついた頃から家にテレビ(当然モノクロ)はありましたが、アメリカ産テレビドラマの全盛期(1960年前後)のことは記憶にありません。アニメで言えば、「ポパイ」(日本での放送は1959~65年)や「トムとジェリー」(日本公開は1964年~)、「マイティ・ハーキュリー」(1963~66年カナダ、日本でも同時期に放送)などがかすかに記憶に残っている程度です。ディズニーはテレビでの印象はあまりなく、映画でアニメ「101匹わんちゃん」、実写「フラヴァ」「テニス靴をはいたコンピュータ」あたりの記憶のみです。

 昭和の子ども一括りにされ、小さい時からディズニーをテレビで観てたとか、手塚治虫(以下敬称略)が好きだとか思われがちですが、もっとも多感だった頃、ディズニーも手塚も低調期だったためか、両者への思い入れは非常に薄いです(またマーベルやDCコミックスも同様)。馬場康夫(1954年生まれ)のようにTVシリーズ「ディズニーランド」(1958年放送開始、本国では1954年から)への熱い想いはないです(ホイチョイ・プロダクションOTVダイヤモンド社、1985年、馬場康夫『ディズニーランドが日本に来た!:「エンタメ」の夜明け』講談社、2013年)。

 草創期から1960年代にかけてのテレビ番組、昭和のお笑いなどについては、博覧強記の作家・小林信彦(かつては放送作家であり、当時の送り手側でもあった)の証言がもっとも克明だと思います。

 

小林信彦『テレビの黄金時代』文藝春秋、2002年
28-9p「ルシール・ポールという女優はハリウッドでそこそこの位置にいたコメディエンヌで、ジーン・ケリーボブ・ホープと共演していたが、四十になることもあってか、夫のデジ・アーネズと組んでテレビに進出することにした。/二人でプロダクションを作り、製作・共演で一九五一年秋からスタートしたのが「アイ・ラブ・ルーシー」である。/日本(NHK)での放送スタートは一九五七年の春からで、ずいぶん遅いが、当時はこの程度のずれはふつうだった。/ぼくはたまに観る程度だったが、こんなに単純なものかと思った。アメリカ人が面白がるものは、必ずしも日本人には面白くない――その好例である。/しっかりしているようでどじなルーシーは夫のリッキー(デジ・アーネズ)とニューヨークのアパートに住んでいる。夫の職業はバンドリーダー。映画のころからスラップスティック演技が得意だったルーシーは、夫やアパートの隣人を相手に大さわぎを見せる。歌も踊りも得意である。/「アイ・ラブ・ルーシー」はアメリカで十年間つづき、テレビの〈シチュエーション・コメディ〉の基本形を作った。長さは三十分、同じセットを使用というパターンで、たまにスぺシャル・ゲストが出る。終始無言のハーポ・マルクスが出演した時は、おしゃべりのルーシーもそれなりに対応した。アメリカでは空前のヒットとなり、彼女のプロダクションは他のテレビ番組まで製作するまでになった。/デジ・アーネズと離婚したあとは、実の息子と娘を加えて「ルーシー・ショー」と題名を変え、一九七四年まで続いた。/「アイ・ラブ・ルーシー」は実の夫婦が演じているというニュースは日本でも知られていたから、「わが輩ははなばな氏」のフランキー堺夫婦の共演はそこに発想のヒントを得ていると思う。べつに悪いことではない」
(※堺のパートナーは日劇の花形ダンサーだった谷さゆり。太字は原著では傍点)

29-30p「「ヒッチコック劇場」は一回目から観て、テレビを莫迦にしているとひどい目にあうぞ、と思った。/これは現在、ビデオで観られるが、四回目の「生と死の間」は、ジョセフ・コットン主演、ヒッチコック演出で、息をのむ出来であった。番組のアメリカでの放送は一九五五年十月からだから、時差は二年もない。…この年、日本テレビから放送された刑事ドラマ「ドラグネット」は、ジャック・ウェッブという役者が主演で、まず、おどかすようなテーマ曲で知られた。このテーマ曲はいまでも駐留軍放送などで唐突に使われるが、ドラマのテーマ曲を超えて、〈おどろおどろしいもの〉を意味するようになった」

 

 フランキー堺(1929~96年)といっても、今の大学生にとっては???でしょうが、本名は堺正俊、戦後ドラマーとして米軍基地を回り、役者へと転身していったため、ジャズマン時代からのフランキーを芸名としました。「はなばな氏」という番組は初耳ですが、こんな風に日米のコンテンツのタイムラグが縮まっていき、テレビドラマ(シチュエーション・コメディ)「奥さまは魔女」の場合は、日本で2年遅れの1966年から始まっています。

 というわけで「奥さまは魔女(原題Bewitched)」は、はっきりと記憶に残っています。その後も「刑事コロンボ」「大草原の小さな家」から「セックス・アンド・ザ・シティ」「グリー」に至るまで、日本でも多くのヒット作はありますが、「奥さまは魔女」以上に印象に残った海外ドラマはありませんでした。その後、ドラマ「MAD MEN」シリーズで上書きされるまでは、私にとってアメリカのアドマン(広告業界人)と言えば、ダーリンでした。

 その後2000年代に日本でもリメイク・ドラマ化されましたが、魔女のパートナーは広告代理店社員という設定は守られており、原田泰造演じるイラブ広告の松井譲二として登場しています。このドラマでは、役名が日本人メジャーリーガーからとられており、松井・新庄・野茂・木田・田口などが登場します。「イラブ広告」も故伊良部秀輝投手に由来します。沖縄出身の伊良部選手は、いわゆるアメラジアンアメリカとアジア系のハーフないしダブル)であり、死去の地もロサンゼルスでした。

 最後に小林信彦に話を戻しますが、小林・青島幸男永六輔はともに戦前(小林・青島は1932年、永はその翌年生まれ)の東京下町(浅草・日本橋)で生まれ育ち、戦前からアメリカのアニメや映画などに親しんだ世代です。少し年上のフランキー堺植木等井原高忠日本テレビ)、渡辺晋渡辺プロダクション)などのように米軍基地でバンド演奏して稼いだ経験はないものの、占領期に多感な時期を過ごした人々が、1960年代、テレビの黄金期を支えていくことになります。

 それから余談ながら小林信彦実弟小林泰彦は、1960~70年代、イラストレーターとしてアメリカの最新若者ファッションを日本に紹介する役割を果たします。

 

 

先の日曜の写真。学園花通りは5分咲き程度か…

 

川上幸之介『パンクの系譜学』書肆侃侃房、2024