この前の日曜、たまには…と思い、学会に行ってみる。
(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(58)アメリカとロリータ・ファッション
ロリータ・ファッションときくと、小説の「ロリータ」自体がアメリカで書かれたものであるにせよ、作者はロシアからの亡命作家だし、主人公も同様にヨーロッパからアメリカへの亡命者ということで、あまりアメリカとは結びつけて考えにくいかもしれません。また、ロリータ・ファッションも、まぁイギリスとかフランスあたりの匂いがします。
しかし、嶽本野ばら『ロリータ・ファッション』(国書刊行会、2024年)など眺めていると、かすかな脈絡も感じられたりします。
77p「Jane Marpleに代表されるロリータが、ブリティッシュ志向であるのに対し、田園詩にはアメリカン・カントリーへの標榜があったからです。その頃の僕達はブリティッシュ原理主義に陥っていました。ですからカントリー派であるPINK HOUSEに対し、可愛いと認めつつ、思想が違うと排他的なる傾向を有していました」
191p「フィフティーズ――。頭にスカーフを巻き、或いはポニーテールで、水玉やストライプ柄の膝丈スカートをヒラヒラさせながらツイストを踊るアメリカの黄金期の若者達のファッション。これと同時に革ジャン、アロハシャツなどもフィフティーズの象徴ですが、こちらはキャットストリートに一九七四年にオープンしたCREAM SODAが既に取り扱いを開始していました。/奇しくも同年、子供服のメゾンとしてShirley Templeを立ち上げた柳川れいさんは、CREAM SODAにおいてはカッコいいであったフィフティーズを、“可愛い”ものとして解釈、独自の世界観として提示しました。/といえども、Shirley Templeの項に記したよう、それはイギリスに拠って再構築されたフィフティーズでした。つなり、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンが、最初、Paradise Garageの一角で五〇年代のレコードを集めて販売したように、CREAM SODAのフィフティーズにも、Shirley Templeのフィフティーズにもロンドのファクターが掛けられています」
後にパンクの仕掛人となった二人も、最初はテディボーイ・リバイバルを手掛けており、アメリカのユース・カルチャーの引力圏内にいたこと、アメリカからロンドンへの波及が原宿に及んだこと――「CREAM SODA(一九七四年)はロカビリー調の古着を扱いセンセーションを巻き起こしましたが、仕入れはアメリカではなくイギリスで行っていたらしい」(197p)――、さらにはロリータ・ファッションのブランド(嶽本的にはメゾン)が、アメリカの名優Shirley Templeに由来することなどなど。
戦勝国アメリカのゴールデンエイジの文化的影響は、太平洋も大西洋も越え、もしくはロンドンを経由して東京にまで及んでいたわけです。
ロリータ!
今日も各種面談など。