60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

路傍の国粋主義者&アメリカの話

今日は通院など。

古矢旬『アメリカニズム:「普遍国家」のナショナリズム東京大学出版会、2002

 

ⅱ-ⅲp「本書が全体として問題とするのは、アメリカ人一般の国民生活を根本的に規定し、結果としてアメリカの国民社会全体を方向づけてきた特異な価値観やものの見方――ややおおげさにいうならば「世界観」――である。ほかの近代国民国家の場合と同じくそれをナショナリズム(nationalism)とよぶことも可能かもしれないが、本書本文中ではあえてそうせずに、「アメリカ・ナショナリズム」のかわりにつとめて「アメリカニズム」の呼称をもちいている。その理由は、アメリカ合衆国の社会と歴史には、ナショナリズムということばに通常ふくまれるニュアンスとは根本的にそぐわない特質がひそんでいるとおもわれるからである」

ⅵ-ⅶp「特定宗教や王権にねざす「大衆的プロト・ナショナリズム」を欠き、多様な民族的要素を包含するこの革命国家が、建国にさいして、その思想的基礎を、民族や人種にたいし可能なかぎり(旧世界では不可能なまでに)中立的で、特定の民族的伝統や歴史に縛られない近代的自然権思想にもとめたのは当然であったともいえる。この啓蒙の普遍的信条を絶対的な立脚基盤とした点において、そしてそのかぎりで合衆国は「理念国家」であり「普遍国家」として出発したといえる。したがって相対的に、合衆国のナショナリズムは、(エスニックであるよりは)シヴィックであり、(特殊的、神話的、歴史的であるよりは)普遍的、世俗的、構成的な性格を帯びることとなった」

393p 「アメリカ文明が、そこに内在するある種の普遍的魅力によって、二〇世紀の人類の想像力をとりこにしてきたということは、否定しがたい事実であろう。そうした普遍的魅力は、高度な科学技術に支えられた強大な軍事力や高い生産性を誇る経済など、ある程度客観的な数値によって確認できる要因からだけではなく、アメリカ産の消費財や音楽や映画などが呈示する価値観や思想や倫理や美的基準のような無形の要因からもなっている。あるいはむしろ、そうした無形の文化的要因に支えられたアメリカ型の行動様式の流布こそが、アメリカの軍事力や経済力のグローバルな展開を可能にしてきたとすらいえるかもしれない」

308-9p「ひろい意味でのアメリカのパワーは、今日にいたるまでなお世界支配をつづけているといってよい。いなそれどころか、世界に撒布されるアメリカ産の技術、アイデア、製品は質量ともに、その後も重要性を増しつづけ、国際共産主義体制が崩壊し、グローバルな市場経済が隆盛をみる今日、それはますますその世界支配を強化しつつあるとさえいえよう。テイラーイズムやフォーディズムの伝統に立脚する大量生産方式、モータリゼーション、種々の電化製品、スーパー・マーケット、ファースト・フード・レストランなどの生活文化、ジーンズにはじまり、Tシャツ、スニーカーなどの服飾文化、子供用玩具、コカ・コーラマルボロに象徴される嗜好的食品文化、ディズニーランドなどのテーマ・パーク、ジャズ、ロック、ポップスなどの音楽、野球やバスケットやボクシングなどの巨大スポーツ産業、そしてなによりもハリウッド映画に象徴される娯楽文化等々といったアメリカの大衆文化、大量消費文化は、今日にいたるまで、広範な世界を転変ただならぬ流行現象のうちに巻きこんできた。そのことは、なによりも第二次大戦後の世界におけるアメリカの圧倒的な文化的ヘゲモニーを象徴する現象にほかならない。/しかも、最近は同じく合衆国に端を発し、その結果アメリカ標準が当然のごとく国際標準とされるコンピューター文明やケーブル・テレビ、ミュージック・テレビといった新しいメディアの登場によって、地球上の人びとの生活と意識におよぶアメリカ文化の影響はますます拡大深化しつつあるかにみえる。一九九六年の時点で、アメリカ産のテレビ、映画、音楽、コンピューターなどに関連するソフトウェアの対外売り上げ総額は、六〇二億ドルに達している。/多くの文化史家が指摘するように、そうした大衆文化商品をとおして合衆国が世界に売っているのは、モノだけではない。それは同時に、個人主義、富、進歩、寛容、楽観主義といったアメリカ的価値やアメリカ性をとおしてのみ実現可能なさまざまな自由(移動や運動の、家族からの、伝統社会や地域からの、社会的な地位や役割からの、そして歴史からの)を、すなわち「私的ユートピア」を売っているのである」

307-9p「「西欧」と「アメリカ」との歴史的な関係については、とりあえず以下の二点を確認しておく必要がある。第一に、アメリカという社会の自己意識(ここでは、これをアメリカニズムとよぼう)は、たしかにヨーロッパ文明(かつてそれは普遍文明とおもわれていた)との連続性の自覚にその歴史的起源があった。しかし、このアメリカニズムはまた同時に、西欧文明にたいする批判と拒絶という契機をも内包していた。アメリカからみるならば、旧世界における西欧文明は、すでに一八世紀末までには奢侈、貧困、専制アナーキー、階級対立、都市と農村の対立といった爛熟、腐敗の兆候をしめしていたからである。…第二に指摘しておくべきことは、近代化のプロジェクトとしての「アメリカ化」と「西欧化」とのあいだの一見してあきらかな差異である。それは、後者がもっぱら西欧世界への働きかけのみを意味し、西欧自体をその客体とはしないのにたいし、前者はアメリカ世界とともにアメリカ自体をも「アメリカ化」するといういわば自己再帰的な契機をふくむ点にある。たしかに「アメリカ化」は、一九世紀前半のイギリスにおいて「アメリカの機械発明能力や技術的創意」を指してもちいられるようになったことばである。しかしやがて、それは外の世界にたいするアメリカの特異性やその影響力の拡大という現象に適用されると同時に、アメリカ合衆国に特異なある社会過程にかんしてももちいられるようになる。…この二点をみるならば、普遍文明としてのアメリカ文明が、西欧文明とは根本的に異質であることはあきらかであろう。アメリカの場合、「アメリカの世界化」が「世界のアメリカ化」がつねに先行してきた。つまりアメリカは世界にひろくその影響欲をおよぼす以前に、それ自体すでに「世界」であったといってよい」