60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(39)1976年の「波がでてきた!」

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(39)1976年の「波がでてきた!」

 

 植草甚一編集の1976年3月号『宝島』。特集は「ビューティフルアメリカ」。その巻頭言には

 

アメリカ合州国は、今年の七月四日に、二〇〇歳の誕生日を迎える。戦後民主主義の日本が、たえずその師としてあおいできたアメリカが、ようやく、変わりはじめている。アメリカが嫌いな人もいるだろう。しかし、嫌いなひとにも、もちろん好きなひとにも、いやおうなしにアメリカン・ウエイ・オブ・ライフは根強くしみこんでしまっている。

 

 この3年後の対談にて、鶴見俊輔亀井俊介は「合衆国」よりも「合州国」と呼ぶべきと話しています(鶴見俊輔亀井俊介アメリカ』文藝春秋、1980)。そういえば、その時鶴見は、戦前からの一貫したアメリカの受容の例として、石坂洋次郎植草甚一を挙げていました。

 さてこの特集には、金坂健二、室矢憲治、小倉エージなどが寄稿していますが、もっとも注目されるのは、片岡義男「地球と遊ぼう①実感的サーフィン入門「波がでてきた!:The Surf Is Up!」」(イラストレーション河村要助)でしょう。片岡は1939年、日系二世の父のもと東京に生まれ、1960年代にはテディ片岡の名でライターとして活躍を始め、1975年には出世作「スローなブギにしてくれ」で直木賞候補となったりしていました。アメリカと近しい環境で育ち、『宝島』に象徴されるようなカウンターカルチャーの息吹の中にいた片岡は、このコラムにおいて「自分が生きている地球との、無邪気で健康なたわむれの真髄がサーフィンにはある」と、サーフィンを一から事細かに紹介しています。

 日本でのサーフィンの始まりに関しては諸説あるものの、1960年代、在日米軍の兵士やハワイから帰国した人々によって、日本各地で始まったことはたしかなようです(水野英莉『ただ波に乗る:サーフィンのエスノグラフィー』晃洋書房、2020年)。

 さまざまな世界の先駆者たちを描いたルポルタージュ、生江有二『無冠の疾走者たち』(角川文庫、1985年)の中に、鵠沼ターザンと呼ばれた伝説のサーファーであり、建築家の佐賀和光が登場し、次のように語っています。

 

131-2p「《(略)大学を卒業して設計事務所に勤めだし、それでも学生気分が抜けず、どうにも仕事に身が入らない。髪は伸ばしっぱなし。(略)休みのたびに海へ出ていた。/名前は憶えていない。名前は忘れたが俳優のグレン・フォードに似た男。そいつですよ。ぼくらにサーフィンを教えてくれたのは》/グレン・フォードに似た男。湘南のオールド・サーファーに尋ねると、返ってくる答えはいつもこの名前だった。彼が誰だったのかは今もわからない。しかし、“グレン・フォードに似た男”は、スポーツの一種としてのサーフィンだけでなく、波と一体化し、波のバイブレーションをいかに把握するかがサーフィンであると、湘南の若者に暗示的な言葉を残し、日本からあっという間に姿を消した。グレン・フォードに似た男。職業は米軍のパイロットだった」

 

 その息子である佐賀和樹氏へのインタビューにも

 

実業家だった祖父・直光氏を慕い、多くの政治家や実業家、米軍将校などが佐賀家を訪れた。そのため、佐賀の父・和光氏の周りには、日本ではなかなか手の届かない世界最先端の流行や文化を身近に感じることができる環境がすぐ近くにあった。そんな環境が「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」を誕生させることに大きく影響したのだという。

「休日になると厚木基地から米軍兵たちが鵠沼海岸ジープで乗り付けて、バーベキューやサーフィンを楽しんでいたそうです。父ら佐賀4兄弟みんなで米軍兵からサーフィンの手ほどきを受けたのが日本のサーフィンの始まりと言われています。1961年、父が21歳の頃ですね。サーフィンをしていると見物する車で渋滞が起きて、パトカーが来るほどだったそうですよ」

海外文化に高いアンテナを張っていた佐賀兄弟が鵠沼にいたからこそ、現在の湘南ブランドのひとつ「日本サーフィン発祥の地・鵠沼」は誕生し、日本にサーフィン文化が花開いたのである。(https://shonan-vision.org/magazine/sagawaki/

 

とあります。ハワイから西海岸へと展開したサーフィンが、1970年代から80年代にかけて、一種のブームとなっていく下地には、やはり在日米軍の存在があったようです。
 余談ですが、『無冠の疾走者たち』には、日本のバイク乗りたちに知られた「チューニング屋」、吉村秀雄も登場しています。吉村は、福岡にて航空機関士として敗戦を迎えます。

 

243-4p「板付に続々と占領軍が降り立つと翌日から博多に万を超えるGIたちがあふれだしてきた。刀はないか、着物が欲しいと徘徊しては大騒ぎになった。機関士崩れの吉村は英語が多少できた。頼みに来るGIたちの要求をかなえてやると、パッケージの鮮やかなラッキーストライク、それに肉や砂糖を交換品として持ってくる。これらは博多の闇市で文字通り飛ぶように売れた。/(略)大胆になった吉村はGIを相手にPX用品の密売、占領軍用食料の横流しに手を染めるようになる。トラックで駆けつけ、荷台一杯の砂糖や肉を抜く闇商売は一晩で巨額の儲けになった。だがMPに眼をつけられた吉村は一年半の実刑を受け、二十四年、福岡刑務所に半年間懲役で入ることになる」

 

出所後、吉村は父親の鉄工所を手伝ったりもしますが、板付基地の滑走路で米兵たちが「ゼロヨン加速を競いあうドラグレース」をやっており、そのバイクの改造を頼まれるようになります。そして、米兵たちから渡される「ホットロッド」や「サイクルマガジン」を手引きに、チューンアップにのめり込んでいきます。

 

 

 

今日は大阪市内に出て、会議。

 

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