60歳からの自分いじり

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(講義関連)アメリカ(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

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メディアの役割や広告のあり方を考える時期がきた 関西学院大学教授・難波功士さんが予測する未来のメディア社会 | メディア環境研究所|博報堂DYメディアパートナーズ

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

 

 今回は100年単位のスパンで日米の関係性をみておきます。まずは、戦前。

 

山室信一『モダン語の世界へ』岩波新書、2021年
302-3p「もちろん、アメリカニズムとは、本来、「アメリカ的流儀」や「アメリカ的言葉遣い」や「アメリカ人気質」を意味するに過ぎなかった。しかし、モダン語では、アメリカが世界に向けて発する経済・社会システムや文化や生活様式さらには価値観そのものと理解されるに至った。/モダン語辞典でも、「アメリカニズム」についての解釈は、時を経て変わっていく。1914年刊の『外来語辞典』では単に「①米国贔屓(びいき)。②米国風。米国気質」に過ぎなかった。しかし、1925年刊の『広辞林』では「①金銭を尊重し、金銭によりて万事を解決せんとし、無遠慮にして軽便を尚(たっと)び、かつ何事に於いても世界第一を目的とする一種の物質万能主義。③趣味は低級浅薄にして、万事に派手好みなるもの」となり、1934年刊の『新語新知識』では「一にも金力、二にも金力で凡(あら)ゆるものを押しぬこう、軍艦も世界一、建物も世界一、何でも他国に負けずに遠慮会釈なくやっつけようというような、拝金的で傍若無人な態度。又、所謂(いわゆる)ヤンキー式の軽佻浮薄で、享楽的で渋味のない浅薄野卑な趣味をいう」と、その影響力の増大に比例して批判的な色合いが濃くなっていく。それは取りも直さず、アメリカの影響が、日本の生活世界に浸透していく濃度に比例するものであった。/いや、それが日本には限定されない浸透力をもって世界に広がっていることに、注意を払うことが読者に呼びかけられる。1933年刊の『モダン流行語辞典』は、「アメリカニズム」を「宣伝の国、繁栄の国、ジャーナリズムの国、映画の国、機械主義の国、大量生産の国、産業合理化の国、享楽の国、ナンセンスの国、ドルの国、フェミニストの国、ストッキングレスの国、これらのカクテールによって出来たのがアメリカ主義である。現代日本のモダンの源泉は、このアメリカであって、昨日のアメリカの流行は、今日の日本の流行となる。単にわが国のみではない。このアメリカ主義は、今や全世界を風靡(ふうび)してしまった」と、その世界化を指摘する」※( )は原文ではルビ

 

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』ちくま新書、2013年(1939年訪日のドイツ人ジャーナリストの証言)
229p「東京や大阪のビルには「ニューヨークやシカゴとほとんど変わりなく――ネオンが輝きまたたいている」。ネオンサインによる広告術はアメリカ式だ。そのような印象を受けたロスは、日本人の精神主義とは裏腹な別の側面を指摘する。「そもそも日本人はひそかにアメリカ人やアメリカニズムを愛しているのだ」」

 

川本三郎林芙美子の昭和』新書館、2003年
148p「震災後の東京ではアメリカ文化がどっと入り込んで来る。昭和六年に出版された安藤更生の『銀座細見』には、「昨日までの銀座は、フランス文化の下にあった。今日では銀座に君臨するものはアメリカである」「今日銀座を横行するものは、モダンボーイであり、アメリカニズムである」とある」

 

 銀座とともにアメリカニズムのメッカともいうべき場所が、商都であり、日本のマンチェスターと言われた工業都市・大阪。映画「浪華悲歌(なにわえれじい)」(溝口健二監督、1936年)や「新しき土」(日独合作、原節子出世作、1937年)などからも、その活気が伝わってきます。

 そして、「鬼畜米英」の時代へ。ただし、新聞記事データベース(ヨミダス歴史館)で「鬼畜」で検索してみると、鬼畜の語は1930年代中国大陸での戦線において使われ始め、アメリカに対しては1942年に入ってからのようです(1942年1月25日付「鬼畜に等しき米人暴虐の詳報 12月20日ダバオ、比島在住邦人遭難事件」)。それ以前だと、1939年8月23日「貰子5人殺す 養育費めあて 鬼畜の反抗発覚/東京・八王子」、1941年4月17日「妻子を売って賭博 捕まった鬼畜男/東京・鬼畜」となります。

 しかし、42~45年は「鬼畜」連発。そして、敗戦後は一切見かけなくなります。松本清張の「鬼畜」(1957年)以降、その映画化などに際して、頻出するようにはなりますが。

 ともかく、敗戦後、人々のアメリカ観やアメリカへの対応は一変します。例えば出版業界では、講談社(1958年まで大日本雄弁会講談社)は、戦時中に陸軍関係の雑誌・書籍を出版する「日本報道社」を関係会社として設けていましたが、戦後一転して

 

・新海均『カッパ・ブックスの時代』河出ブックス、2013年
24p「光文社は一転して、「征旗」から「光」(一九四五年一〇月創刊・13万部)という、民主主義を称える雑誌を創刊する。「アメリカに何を学ぶか」という記事や高見順の小説、和田伝、朝比奈宗源らのエッセイ、瀧井孝作の俳句などが掲載された」

 

人々の側も

 

・Dower, John,1999,Embracing Defeat, W.W.Norton=ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて:第二次大戦後の日本人』岩波書店、2004年
120p「1945年12月、京都のある玩具メーカーが全長10センチ足らずの小さなジープのおもちゃを10円で販売した。10万個の商品がすぐに店頭から消え、玩具産業復活のささやかな前触れとなったが、この商品がアメリカそのものの象徴であったことは不思議ではない。…ジープは陽気な米兵がくれるチョコレートやチューインガムを連想させた。…子どもたちは、もはや伝統的な武士のカブトではなく、柔らかいGI帽を紙で作った」

 

 占領期、米兵たちの姿は、全国津々浦々で人々の目に焼き付いていました。当時14歳だったアニメーター大塚康生は、終戦山口市でむかえ、ジープなど占領軍の車両を克明にスケッチしていました(大塚康生ジープが町にやってきた』平凡社ライブラリー、2002年)。

 そこから高度経済成長を経て、オイルショックを乗り切ったころ、Vogel, Ezra F. 1979  Japan as Number One: Lessons for America, Harvard University press=エズラ・F・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン:アメリカへの教訓』(TBSブリタニカ、1979年)が出版されます。

 

エズラ・F・ヴォ―ゲル『ジャパンアズナンバーワン:それからどうなった』たちばな出版、2000年
81p「『ジャパンアズナンバーワン』が初めて本屋の店頭に並んだのが一九七九年のことであった。大方の予想を裏切って本の販売部数は急上昇した。アメリカ国内でハードカバーが約四万部、ペーパーバックも一〇万部ほど売れた。日本では七〇万部以上が売れて、何週間もベストセラー・リストに登場した」

 

 先行するお手本としていたアメリカ(のハーバードの教授)が「日本に学べ」と論じていることに、日本のビジネスマンなどが飛びついたということでしょう。今の目から見ると、勘違いのはじまりというか、お手本を喪失した迷走の起点というべきか。

 

 

今日は3年生ゼミなど。