ひとさまのことやら、ひとさまが作ったものを、好きだ嫌いだと言っているうちに
なんとなく自分の好悪の基準みたいなものが見えてきたように思います。
私は結局、
1961年大阪市東住吉区生まれ、堺市育ちゆえのvernacularityから逃げ切れない人間
のようです(いや別に逃れたいとも思ってませんが)。
それゆえ、自身のvernacularityを払拭するために、
(ハイ)カルチャー(的なもの)――中でも海外の、とりわけ欧米の――の威光haloを援用する
という戦略をとる人を、嫌う傾向にあるわけです。
(と言いつつ、vernacularityとかいうコトバしか見つけられないあたりが、ダメダメですが)
憂歌団が、いくらブルースにとり憑かれようと、
高田渡が、いくらウディ・ガスリーにはまろうと、
それは全然OKです。この人たちは、損得抜きに、それが好きなのだから。
それによって、自身を権威づけようとは、まったく思っていないのだから。
木村充揮(元憂歌団)は、日本社会で在日コリアンとして生きてきた以上、
ごくごく自然に、アメリカ南部・中西部の黒人音楽に惹かれていったんでしょう。
町工場で働いていた高田渡が、ウディ・ガスリーに魅了されるのも宜なるかな、です。
vernacularityへのこだわりが、偏狭にではなく、普遍へと結果する道…。
思いつくのは、木村充揮、高田渡、水木しげる。なぜか、山本和範。