60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(25)戦後、文学者たちのアメリカ体験

 

 以前(21)にて、アイルランドのダブリンを舞台として青春映画『ザ・コミットメンツ』(1991年)に、「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。ダブリンの住人はアイルランドの黒人だ、俺たちノースエンドの住人はダブリンの黒人だ」といった台詞があったという話をしました。以下は1960年から61年にかけてアメリカ南部に滞在した文学者の文章です。

 

116p「私を黒人の集会に案内してくれたキビーの家はナッシュヴィルを西南に五十マイルほどはなれたフランクリンという町にあるが、「そこで五人の南軍の将軍が殺された」と彼は酸っぱいものでものみこんだように顔をしかめながら、長い指を折って一人一人の将軍の名を私に教えこもうとする。黒人差別に反対し、きわめて進歩的な意見をもっているキビーにして、そうである。これは所謂リベラルな考えを持つ人にも、保守的な人にも共通した心情であるといっていい。「南部はアメリカのアイルランドだ。南部の人たちは無益と知りながら、北部への抵抗を執拗にくりかえす」とは何を指していった言葉か私にはわからないが、南部がその重要な産業をほとんど北部の資本におさえられているという事実からも、南部人の北部への反感が単なる感傷や復讐心といったものでないことはたしかである」(『安岡章太郎全集Ⅶアメリカ感情旅行』講談社、1971年)

 

 アイルランドイングランドとの関係のように、南北戦争以来、南部は北部に虐げられてきた、南部の黒人差別について、(主として)北部の知識人、リベラルはとやかく言ってくるが、南部のことは南部で決める、放っておいてくれ、という意識がこの頃強かったのかもしれません。

 同じようにアメリカ南部におもむいた小田実は、フルブライト奨学金による留学でしたが、安岡の場合はロックフェラー財団基金による招聘でした。このロックフェラー財団創作フェローシップによって1950年代から60年代、アメリカに滞在した文学者には安岡以外にも、福田恆存大岡昇平石井桃子中村光夫阿川弘之小島信夫庄野潤三有吉佐和子江藤淳などがいたようです(金志映『日本文学の〈戦後〉と変奏される〈アメリカ〉:占領かつ文化冷戦の時代へ』ミネルヴァ書房、2019年)。

 こうしたプログラムや以前(14)でふれたCIE図書館など、アメリカからの(アメリカとの)文化外交の軌跡に関しては、渡辺靖アメリカン・センター:アメリカの国際文化戦略』(岩波書店、2008年)が包括的に取り扱っています。このようなより組織だった交流以外にも、1991年から約2年半、村上春樹プリンストン大学の客員研究員として滞米するなど、知識人・文化人のアメリカ経験や相互交流は、長い目で見たときに、われわれの「アメリカ」イメージ形成に関与していそうです。

 まぁ、ロックフェラーのフェローシップはかなり昔の話なので、今日への影響は薄いかもですが、ここでは有吉佐和子(1959~60年、ニューヨークに滞在)の『非色』(ひしょく、1967年、角川文庫)を紹介しておきます。この小説を一言でまとめると、「戦争花嫁(war bride)」たちの物語。Wikipediaには、戦争花嫁の説明として「戦時中に兵士と駐在先の住民の間で行われた結婚に言及する際に使われる言葉で、通常、兵士と結婚した相手のことを指す。主に第一次世界大戦第二次世界大戦中のものを特に指すが、他の戦争も含む」とあります。かつて、ラッパー風の外見で演歌を歌うと評判になり、NHK紅白歌合戦にも出場したジェロの祖母も横浜出身であり、祖母の影響で日本に興味を持ったのだとか(https://courrier.jp/cj/311222?gallery)。

 さて、『非色』に登場するアメリカに渡った戦争花嫁たちの夫は、アフロアメリカン、イタリア系、プエルトリカンなどでした。占領期、日本にいるときは皆一様に「アメリカ兵」でしたが、本国での夫たちは人種的な偏見・差別の中にいました。そのために生じた悲劇も、この小説の中では描かれています。

 中央公論社刊の単行本初版『非色』(1964年)には、副題として「NOT BECAUSE OF COLOR」とあります。主人公笑子は、駐留軍キャバレーの支配人と従業員として東京で知り合った頃、夫の黒い肌をあまり意識しませんでした。が、娘メアリィに向けられた日本社会の視線を考え、渡米します。しかし、ニューヨークでの夫は、東京で頼もしく思えたかつての姿ではありません。笑子も働くことでやっと暮らしていける毎日。米兵ではなくアフロアメリカンと結婚したことを、強く認識します(これは夫がイタリア系でもプエルトリコ系でも同様。そういえば両者の若者たちの抗争を描いたのが、1961年の映画「ウェスト・サイド物語」)。本質主義的に肌の色をとらえるのではなく、その社会的な関係の中で肌の色への意味づけはなされていくということで、「色のせいではない」という副題となったのだと思います。

 もうあまり読む人も少なくなったのでしょうが、いわゆる帰国子女であり、戦後南博率いる社会心理研究所にも出入りしていた有吉は、社会派文学者(『恍惚の人』『複合汚染』など)として読み返されるべき存在だと思います。Wikipediaでの有吉の記述が、「笑っていいとも」での奇行の件ばかりが目立つのは、ちょっと残念。

 

 

ゼミ卒業生(広告会社勤務)がネットの部で優勝とのこと。「ネット」が何を意味するかも分からないが、88888888888。