60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

評判と評価

最近の子どもたちのツボは、幼稚園のお友達にお手紙を書くこと。
ひらがなを覚えはじめたものの、でもそこはさすがに園児で
ケータイ・メールを送りあうわけではなく、古風にお手紙。


書いたお手紙は、散歩がてら各家の郵便受けに入れて歩く。
「ストーカー???」と思わないわけでもないし、
息子は、ウェンディがピーターパンへの手紙にそう書いてたからと
「あいおこめて」と記した手紙を、数名の女の子たちに配っている。


そんなよくわからない子どもたちの振る舞いに対しても
どの親御さんたちも皆さん丁寧に接してくださっている。
なんなんだろう、この同じ幼稚園に通う子がいるというだけで
成立する「安心社会」は……


と、『ネット評判社会』を眺めながら考える。
あと、この本にあった「評価とメタ評価」の話がツボにくる。


わが身を振り返って、自分が評価する側に回るのは、主に
・教授会での人事案件の投票
・時々舞い込む査読や書評の依頼
・入試業務やゼミ生の選考
・レポートなど、大学生への採点
など。逆に評価されるのは
・研究費の申請や出版企画の持ち込み
・授業評価
・自著への書評など


ある評価が正しかったか否かを評価する、
メタ評価(評価の評価)の重要性は首肯するところ。
(そう言えば、会社員時代査定って受けてたよなぁ。
学会誌・学術誌に投稿した戦績は2勝2敗。2敗の分も、
その後意地で活字にしてやった。ザマアごらんあそばせ)


投票や複数レフェリーの場合はまだしも
一人で評価を決する際は、果たしてほんとにこれで…
の疑念はつねにつきまとう。ゼミ生の選考などはそれ。
特に私の場合、ゼミ生の選考は統一的な課題を与えるとか
全員を同様のやり方で面接するといった方法を採っておらず
さまざまな提出物や任意の面談の機会を経て、
20名ほどに新メンバー表(Roster)が落ち着いてくるのを
決め込まなければならないその日まで待つ…、という方式。
では、その決断の正誤は、いかに問われるべきなのだろうか。


考え出すときりがないので
私が高く評価した学生を、社会も高く評価したならば
私の判断はさしあたり間違っていなかった…
と思うようにしている。社会からの評価もいろいろで
もちろん在学中の行いに対してもそうなのだが、
社会に出て行く地点での社会からの評価が、
もっともcrucialであることは確かだろう。
(3〜4年生の時期をつきあう以上は)


crucialというのは、本人にとって、学費負担者にとって
私にとって、大学・学部にとって、この社会にとって
のすべてにおいてである。
別に就職活動するだけが能ではないし、
就職実績・成果がすべてだとも思わないし、
大学を出た時点だけではなく、10年後、20年後、30年後の
卒業生たちに対する社会からの評価というのも重要だろう。
でも、やはり、出口がcrucial…
そこでの社会からの評価が、やがて評判となっていく…


てなことを考えつつ、絞り込む作業は今週・来週が山場。