サイバーエージェント社(以下CA)のホームページにて同社提供の「サービス」を眺めていると、メディア(ネットTVのABEMA、ブログのAmeba、音楽配信のAWAなど)、インターネット広告、ゲーム(グランブルーファンタジー、ウマ娘プリティダービー、バンドリ!ガールズバンドパーティなど)あたりが三本柱で、あとはAIの研究開発、DXに関するコンサルティング、各種新規事業(プログラミング教育、スポーツ支援など)にも取り組んでいる……、ということのようです。
国内の広告会社ランキングなどでCAが3位あたりに登場することも多いですが、多様なサービスの中から広告の売上高だけを切り出しての額なのかはよくわからず、何とも言えないところはあります。しかし、インターネット広告の急成長を考えると、数字の見方、統計の取り方次第でしょうが、CA、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム、デジタルホールディングス、トランスコスモス、アイレップ、セプテーニホールディングス、カルタホールディングス、電通デジタルなどなどが、オーソドックスな総合広告代理店を押しのけて、結構上位にランキングされても不思議ありません。
まぁいずれにせよ、「メディア/インターネット広告/ゲーム」をまたぐというCAの事業展開は、独特だよなぁと思いつつ、でもこれってネット以前にはありえなかったことなのかというと、そうとも言えないのではないかという気もしてきました。
というのも、私は4年ほど前に、富山市の文学館で「明治のアントレプレナー、瀬木博尚」という演題でお話したことがあったからです。
多くの人にとっては、「瀬木博尚、誰だそれ?」でしょうが、博報堂の創業者です。
瀬木博尚は、1852(嘉永5)年に富山藩士の子として生まれ、戊辰戦争にも従軍しました。その後、30代半ばで富山から上京し、自由党の大物、星亨のもとに寄寓します。自由民権運動とそれへの弾圧が激しかった頃のことなので、博尚も石川島監獄署に投じられ、そこで過激な言論人・出版人として知られる宮武外骨と知り合ったりもしました(宮武が東京大学明治新聞雑誌文庫のために資料を収集・整理したことも有名ですが、この文庫は博尚の寄附によるものです)。
その後、博尚は新聞社にて校正係・編集助手・広告営業などとして働くうちに、海外の広告事情を知り、1995(明治28)年神田にて教育雑誌の広告取次店「博報堂」を開業します。その時すでに43歳。
遅すぎる起業のようですが、当時出版社として隆盛を誇っていた博文館の雑誌への広告取次を始めたことで、事業は急速に軌道にのります。博報堂の「博」は、博尚からきていると思われがちですが、博文館の恩顧にこたえるの意もあったのかもしれません。また、親友宮武の『滑稽雑誌』への広告取次などもしていました。
そして、雑誌の広告欄を埋めるだけではなく、出版社(による書籍・雑誌)の広告を新聞にのせる代理業にも力を入れていきます。今でも新聞一面下に書籍の広告が並んでいるように、主要な広告媒体が新聞など活字メディアしかなかった戦前、円本ブームなどもあり、出版社は百貨店、薬品・化粧品、食品会社などとともに、巨大広告主として君臨していました。
また同時に、博報堂は出版社でもありました。国立国会図書館の詳細検索で、出版社を博報堂と指定すると、戦前だけで200冊以上の書籍・雑誌がヒットします。その多くは教育関係のものでした。博尚の教育への思い入れは、かなりのものだったと思われます。
そして1924(大正13)年、内外通信社広告部博報堂として、株式会社化をはたします。内外通信社?となるかもですが、電通(日本電報通信社)が、当初広告代理業務と通信社業務――記事を新聞社などに配信――を兼ねていたことは有名でしょう(戦時体制下、報道への統制が強まるにつれ、広告専業化)。博報堂も、地方紙などに新聞連載小説を流したりしていたようです。
博尚は1938(昭和13)年、戦禍を見ることなく、その生涯を閉じました。
内外通信社博報堂編『瀬木博尚追憶記』(内外通信社博報堂、1940年)には、博文館の二代目社長である大橋新太郎をはじめ、前東京聾唖学校長の「隠れた教育界の恩人」や富山市立図書館長の「親切と礼儀」といった追悼文が並んでいます。博尚は東大に文庫を寄附するだけではなく、郷里富山の小学校や図書館にも「瀬木文庫」を設けていました。やはり、教育への思い入れはずいぶんと強かったようです(それが今日の公益財団法人博報堂教育財団へとつながっているのでしょう)。
瀬木文庫(1925(大正)14年8月25日分)
寄贈先 | 冊数 | 総額 |
桜谷校 | 457 | 522円30銭 |
清水校 | 336 | 449円33銭 |
五番町校 | 214 | 425円43銭 |
柳町校 | 330 | 472円30銭 |
八人町校 | 270 | 449円15銭 |
愛宕校 | 311 | 448円75銭 |
総曲輪校 | 343 | 408円36銭 |
西田地方校 | 390 | 451円50銭 |
星井町校 | 280 | 433円90銭 |
図書館 | 326 | 438円40銭 |
太田久夫『郷土雑纂(第1集)』1987年、「三、瀬木博尚翁のことども」22p
私は富山に全くの土地勘はないのですが、講演の際、オーディエンスの方々は結構わいていました。ちなみに「西田地方」は「にしでんぢがた」と読むのだそう。
そして1946(昭和21)年には宮武外骨『アメリカ様』が出版されますが、その発行所は「神田区錦町三丁目二二 蔵六文庫」となっています。博報堂の旧本社のあったところです。宮武との縁は博尚死後も続いていました。
戦後、出版業や雑誌メディアと近しかった博報堂は、電波の大波に乗り遅れることになります。
商号が「内外通信社博報堂」から「博報堂」と変更されたのは、1955(昭和30)年。新聞社が櫛比するメディアの街銀座を本拠とした電通に、民間放送への取り組みで一歩遅れ、その差が埋まらぬまま今日を迎えます。初期民間テレビ放送を二人三脚で支えた電通の力は、以下の動画などで一目瞭然でしょう。
もちろん、萬年社と「鉄腕アトム」など、他の広告会社による事例も多々ありますし、現在の製作委員会方式(テレビ局と広告会社はほぼデフォルトで参加)に慣れた若い人たちには、当たり前のことかもしれませんが。
そういえば、昭和の頃まではなんとなく、体育会系電通と文化系博報堂という雰囲気の違いがあったように思います。それもこれも、出版の街である「神田の生まれ」や創業者の教育好きがあったからなのでしょう。かつて博報堂には、恩地孝四郎(版画家)らの装幀相談所があり、社員として一時期多木浩二(美術評論家)が所属したりもしていました。
とまぁ、昔話を延々としてきましたが、要するに言いたかったのは、博報堂という広告会社も、その初期には、雑誌など自前のメディアを持ち、広告取次・代理業だけではなく、さまざまなコンテンツ・メーカーとしても蠢いていたということです(1960年代には瀬木プロダクションを抱え、テレビドラマを作ったりもしました)。冒頭にあげたCAと何ら違いはなかったという話です。時代の速度は幾何級数的に早まっていますが……。
明治末から続くような広告会社も、もとはスタートアップでした(考えてみれば新一万円札の渋沢栄一も明治のアントレプレナー)。またそれらの多くは、もともと広告専業でもありませんでした。世間から広告会社とみなされていること、「広告」の枠内のみにいることが、枷となりかねない……。もちろん、当事者がいちばんひしひしと感じていることでしょうが。
あと、余談ですが、スタートアップ期の記憶が消え去り、巨大な存在となったマスメディア(の経営陣)が、20世紀から21世紀にかけて、(IT)ベンチャーにとった態度は、今から思えば間違いだったような気もします(その事件性はきちんと認識すべきでしょうが、リクルート事件からライブドア事件にかけてのことを思い返しています)。
さらに余談ですが、明治のアントレプレナーには北陸出身、特に富山出身者が多いように思います。安田講堂の安田善次郎は富山藩の下級藩士の家に生まれ、清水建設の清水喜助や浅野財閥の浅野総一郎も富山県出身。メディア関連では、正力松太郎(富山県射水市)、やや時代は下りますが角川源義(富山市)。博文館の創業者大橋佐平も長岡出身でした。藩閥がはばをきかす中、軍や官界・政界ではないところに活路を見出したということでしょうか(まぁ、正力の場合は官僚を辞さざるを得ない事情があってのメディア業界、気取って言えば操觚界入りでしたが)。