60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(補遺の補遺)アメリカ(60)草野ブラザーズをめぐって

ついでに、吹田事件の際の、吹田操車場とデモ隊。

 

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺の補遺)「アメリカ」を考える(60)草野ブラザーズをめぐって

 

 今回は、(構成:濱口英樹)『見上げてごらん夜の星を:音楽プロデューサー草野浩二伝』(シンコーミュージック・エンタテイメント、2023年)の紹介です。1937年生まれの草野浩二氏へのインタビュー。

 

14-5p「楽譜屋の倅ですから、音楽的な環境には恵まれていたと思います。終戦直後の混乱期でも、実家には電蓄(電気蓄音機)やラジオがありましたから。とはいえ、子供の頃は音楽を聴くよりも外で遊んだり、小説を読んだりすることの方が楽しくてね。それでも兄がFENをかけっぱなしにしていたので、自然と米国のヒットソングに親しむようになりました。小学校としてはかなりませていたんじゃないでしょうか。/75年以上前のことで記憶がおぼろげですが、土曜日の夜7時半からFENで『ハワイ・コールズ』という番組が放送されていました。名前の通りハワイアン音楽を流す番組で「ウェブリー・エドワーズとハワイ・コールズ」というバンドが出演していた。DJはもちろん英語なんだけど、僕はそれを聴いているうちにハワイアンが好きになったんです。で、その前か後か忘れちゃったけど、『グランド・オール・オプリ』というカントリーミュージックの番組も土曜の夜に放送されていて、兄貴はその番組がお気に入りでした。彼はいろんな音楽を聴いていましたが、ハンク・ウィリアムズに代表されるカントリーがいちばん好きだったと思います」

 

 楽譜屋とある件、現在の音楽関連の出版社シンコーミュージック・エンタテインメントにつながっています。また、兄とあるのは草野昌一で、浩二が大学生の時代に、すでに『ミュージック・ライフ』編集長となっていました。この兄弟は、実演者ではないにせよ、生粋の音楽エリート一家なわけです。

 

24p「‘60年4月、僕は「東京芝浦電気レコード事業部」で社会人としての一歩を踏み出します。東芝レコードは’55年に親会社・東芝の一部門として発足した組織で、国内でコロンビア、ビクター、キング、テイチク、ポリドールに続く6番目のレコード会社。当時は各レコード会社に専属の作家がいたのですが、東芝は洋盤の販売からスタートした新しい会社で、邦盤も演歌系よりポピュラー系の歌手が多かったので、専属制度に捉われない気風がありました。実際、‘59年にはフリーの作家(作詞:永六輔、作曲:中村八大)による水原弘の「黒い花びら」を発売して大ヒットを記録。老舗のレーベルを差し置いて、第1回の日本レコード大賞を受賞しています」

 

 そして浩二は、洋楽のカバー曲を多く手掛けていくことになります。

 

32-3p「カバーポップスの全盛期は‘60年から’63年のおよそ3年間でしたが、その間の原曲は圧倒的にアメリカンポップスが多かった。なかでもニール・セダカポール・アンカコニー・フランシスといったティーンポップの人気が高く、彼らの新曲は売れることが分かっていたから、少しでも早くカバーしようとしたものです。海外のヒットソングが日本に紹介されるまで、タイムラグがあった時代ですが、僕は『ミュージック・ライフ』を通じて現地の情報をほぼリアルタイムで得ることができました」

「僕の兄貴も“漣健児”の筆名で訳詞家として大活躍。原詞のエッセンスを生かしつつ、唄い手の声やキャラクターを生かした言葉選びは「超訳」と言われましたが、だからこそ多くの日本人が口ずさんだのです」

 

 その後、カバーポップスはビートルズによって駆逐され、またGSによってレコード会社の専属制度は崩れはじめ、作曲家などと歌手との徒弟関係は演歌の世界にのみ残っていくことになります。そもそも「演歌」というジャンル自体も、洋楽の影響を受けることで、1960~70年代に歌謡曲の中に凝固していき、やがて「日本のこころ」視されていったものでした(創られた伝統!)。そして平成に入ると、やがて演歌を除いた部分は、「J-POP」へと解消・改称されていきます。

 

 

今日は大阪市内に出て、面接仕事や研修仕事など。