60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(35)米軍キャンプの森光子

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(35)米軍キャンプの森光子

 

 米軍基地のクラブなどで歌った経験があるとされる歌手は、坂本九、小坂一也、フランク永井ペギー葉山松尾和子雪村いづみ江利チエミ伊東ゆかり、しばたはつみ、松原みきとさまざまですが、意外なことに女優森光子にもそうした時期がありました。

 

61p「つい少し前までは日本の兵隊さんの慰問をしておりましたのに、終戦の年の暮れぐらいからは米軍のキャンプで歌う仕事を始めたのでございます。/以後、食べるためにずいぶん米軍のキャンプを回って歌いましたが、最初はとても苦労いたしました。/なにしろ戦争中は英語の歌は禁止されていましたので、英語で歌える歌を知らず、有名な歌手のディック・ミネさんのお友だちで、ベティ稲田さんという、日系二世のジャズ歌手の方に特訓していただきました。/その特訓がそれは厳しゅうございまして、歌詞の「サウス・オブ・ザ・ボーダー」という言葉の、サウス(SOUTH)のTH(ス)の発音がだめだとずいぶん叱られましたが、頑張ったおかげで五、六曲は歌えるようになったのでございます」

62-4p「広~い食堂の、真ん中にぽつんとマイクが立っているようなステージで「お買いなさいな、お買いなさいよ~♪」という、「小鳥売りの歌」を歌っていたときのことでございます。向こうから大きな黒人兵がノッシ、ノッシと歩いて来るのです。/怖いのをがまんして歌い続けておりましたら、私の十メートル近くまでやって来て、「スイング、スイング」と言うのです。/要するに、スイング、体を動かして歌え、ということでございました。私はまっすぐに立って歌っているだけでしたので、ああ、そうか、と気がつきまして、足をルンバ調に踏んで、「お買いなさいな♪」と歌いましたら、それを見て、黒人兵は「グ~!」と、手をかざして言ってくれました。/戦争中、アメリカ兵は鬼だと教えられていましたのが怖かったのですが、それは戦意を高めるための嘘だったのでございますね」(森光子『あきらめなかったいつだって:女優・半世紀の挑戦』PHP研究所、2011年)。

 

 

 しかし、この森光子自伝はインタビューによるものなので、いろいろ記憶違いもありそうです。

 

65-6p「ある日、いつものように銀座へ出かけましたら、四丁目にすごい人だかりができています。何かと思い、「何を売ってるんですか?」と聞いてみますと、「違いますよ。あれをご覧なさい」と言われ、見てみますと、米軍のMPが交差点の中央で交通整理をしているのです。/笛をビ~、ビッ、ビッビと鳴らし、とてもかっこ良くて、何かダンスを踊っているみたいに素敵で。思わず見惚れてしまいました。よく見ますとなんと、そのMPはハリウッド・スターの映画俳優タイロン・パワーなので、もうびっくりいたしました。/とてもいい男で、清潔感があってスラリと背も高い彼が、真っ白な手袋に、まっすぐな線が入った白いスパッツ(ズボン)姿で、キビキビと交通整理をしていたのです。それはスマートで、胸がキュンとなるほど素敵でございました」森光子前掲書

 

 たしかに、当時のニュース映画には、日本でのタイロン・パワーの姿が残っています。

www2.nhk.or.jp

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300573_00000&chapter=006

 ですが、これには、以下のような考証もあります。

 

195-6p「タイロン・パワー【たいろん・ぱわー】 朝ドラ『梅ちゃん先生』で終戦直後のニュース映画を使用した時、年配の視聴者から「洋画スターのタイロン・パワー(一九一四~五八)らしき米軍人が写っているのでは」と問い合わせがあったが、その通り本人でした。さて、このタイロン・パワーについては「終戦後、進駐軍のMPとして銀座四丁目の交差点で交通整理をしていた」という伝説がある。しかしこれは事実ではなかろう。なぜなら、

➀パワーは確かに進駐軍将校として来日したが、海兵隊航空隊の少尉であって、交通整理を担当する陸軍のMPではない(終戦に関する連絡任務で、パワーの操縦する輸送機に乗ったことのある日本海軍軍人もいる)。「スターの一日署長」ならともかく、「一日交通整理」は危険極まる。
②滞日期間もごく短く、昭和二〇年一一月に本国帰還、翌年一月中尉で除隊している。③現存する『日本ニュース』では、「日劇前に立つタイロン・パワー少尉」(胸に海兵隊航空隊章をつけている)に続いて、「進駐軍MP、銀座で交通整理」の映像があり、両者が混同されたと思われる。

 なお、「子供の時、銀座の交差点で、MPのタイロン・パワーに抱っこされたことがある」と語る人(及び「という人の話を聞いたことがある人」)もいるが、上記からすれば「誰かよく似たハンサムなMP」をパワー本人と思い込んだことが原因だろう。あるいは本当に銀座でパワーに抱っこされたが、後で③を見て記憶が混乱したとか」(大森洋平『考証要集:秘伝!NHK時代考証資料』文春文庫、2013年)

 

 

 

今日も登校。インターネットでアメフトの試合聴いたり、片付け仕事したり。
ゼミ3・4年生、けっこう連れてってもらってるし、出せてもらえているようで何より。

(講義関連)アメリカ(34)70年代から顧みる焼跡・闇市

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(34)70年代から顧みる焼跡・闇市

 

 1970年代から80年代初頭にかけて、平凡社カラー新書シリーズが発行されていました。カラー写真をふんだんに使った新書本という新機軸ですが、残念ながら140タイトルぐらいで終わっています。その71冊目が、野坂昭如が写真家長野重一と組んだ『アメリカ型録:終戦進駐軍・焼跡・闇市・特需・繁栄』です。『POPEYE』などカタログ雑誌の隆盛にあやかったタイトルなのかもしれません。使用されている写真は、長野が撮影したものだけではなく、新聞社などから借りたものもあり、国会議事堂前にカマボコ兵舎の建ち並ぶ「国会議事堂の脇に建てられた“パレス・ハイツ”」といった風景もあります。

 以下は野坂の、神戸時代の回顧から。

 

62-3p「この頃、ぼくは旧制第三高等学校に入るつもりで、かなり真面目に勉強していた。三高の学生になれば、家庭教師の口もあるはず、なによりも食うためだった。となると停電は大敵、敵をさけるには、進駐軍施設の近く、配電線が一緒の学友の家をたよる他ない。あまり勉強の出来ない肉屋の倅に頼み、その勉強を手伝う約束で、ぼくは進駐軍の接収したビルのそばの、肉屋へ夜ごと出かけた。(略)音楽家になりたいという倅は、WVTRの放送を聴かせてくれ、ぼくはラジオを持たず、新聞もあまり読まない、だから米軍向けの放送があるとはじめてしり、アンドリュウズシスターズのコーラスに、しみじみ敗戦の実感があった。親のしつけで、あまり流行歌になじみがなく、もっぱら学校で教わる唱歌と、おのずから耳に入る戦意高揚歌だけ、つまり、ただがなればいいと考えていたところへ、生まれてはじめて、ジャズのハーモニーが流れこんだのだ。アメリカ人は別の人種だ、いやまるっきり、文化のレベルがちがう国と、納得がいった」

66-7p「当日、教頭が朝礼台に立ち、「マッカーサー元帥の、ありがたい思し召しによりまして、本日、進駐軍司令官の御査閲をかたじけなくすることになりました。諸氏、すべからく威儀を正し、かりそめにも礼を失することのなきよう注意されたい」朝礼台の下に、黒眼鏡をかけ、闇屋をやっていると噂の公民の教師がいた、学校に割り当てられた自転車のチューブを横流しした元柔道、現在レスリングの講師、生徒に作らせたサツマ芋をこっそり盗ってしまった漢文の教師、いずれも緊張して居並ぶ。/進駐軍ジープでやって来た、ごくおざなりに教室をのぞきこみ、多分、その意を迎えるためであろう、野球部の連中が、体育の授業を装ってノックの練習をしていた、バットを持つのは、京大出身の英語教師だった。/歓声が上って、校舎の窓からながめると、進駐軍の一人が、ノックバットをふるい、球は、ピンポン球のように弾んで、野手の頭上をこえ、校庭の外、つまり崖に落ちる、教師はチューンガムをもらったらしく、口もとをもぐもぐさせつゝ、笑っていた。(略)全部叩きこんで、進駐軍は何ごとかさけび、すると通訳が箱を運んで来て、中に、ぼくは後でみたのだが、光り輝くニューボールがセロファンに包まれびっしり入っている、しばらく教頭の部屋に飾られていたそれは、まったくお菓子そのものだった」

 

 次は受験に失敗してからの回顧。

 

79-80p「大阪へもどり、もはや中学の五年に進む気はないし、そのゆとりもなかった。夏、夙川のパインクレストを接収した進駐軍の、ボーイ募集に応じ、しかし、どうもプライドが邪魔して、前まで行きながらひっかえし、秋口に入って、中之島公園進駐軍と日本女性の仲介業、といっても本職のパンパンとの仲を取持つのではなく、まったくの素人娘が、GIの恋人を求めて、公園をふらふらと歩く、ぼくはこの頃、京阪日々新聞という、きわめてインチキな週刊紙の記者兼広告取りをしていて、あまり気に染まない仕事だから、暇つぶしに中之島でボートになど乗る、どこを見込んだのか、素人娘はぼくにGIとのとりもちを依頼し、手近かの兵隊を招きよせて引合わせたのが最初。/紹介もなにも、お互い相手を求めているのだから、たちまち国際親善の実がみのり、二人連れ立っていずこにか去る、翌日、女は両手にかゝえきれない珈琲の半封度罐、チョコレート、各種罐詰を持ち、煙草がいちばん手っとり早く金になるのだが、これは軍の中でも数量に制限があるのか、少なかった。/女には、これを捌く手づるがない、公園の中の、代用コーヒーを飲ませる喫茶店が、本職のたまり場であり、また、進駐軍物資買い受け人もよく顔を出すから、ぼくがかけあって換金する、正確には覚えていないが、ハーシーの板チョコ三十円、MJBの罐が百五十円くらいだった。闇市で買うと、この四倍はした」

 

 野坂はその後、新潟を経て上京し、羽田飛行場の中の米軍キャンプで、「グァムから到着する米兵の仮りの宿のクローク」と働くなどします。その後、出世作の小説「エロ事師たち」が英訳される際にアメリカに招かれ、また本書の末尾は、娘たちを連れて、本国のディズニーランドにおもむくかもしれないと、「風化した焼跡派」との自嘲の弁で結ばれています。

 1977年発行の本ということで、「デニム」と題した渋谷のジーンズショップ店頭――看板に「Gパン専門の」とある――の写真(長野重一撮影)などもあります。そのキャプションに曰く「当時はデニムと呼んでいたジーンズは、パンツにスカートに今や世界的ファッション。老いも若きも、ついだり、はいだり、晒したりして町中のし歩く。もとはといえば、アメリカの労働者の綿地の野良着、作業着のたぐいだった」(106-7p)。

 

 

 

今日は大学院教務など。

(講義関連)アメリカ(33)50年代と70年代の開放感

tsuki-mado.jp

 ここもこんな感じであと10年もてば、一周まわって脚光浴びることもあるかも。

 

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(33)50年代と70年代の開放感

 

 まずは、1970年代の回顧から。

 

24-5p「昭和50年代初めの渋谷を回想するとき、とりわけ懐かしい記憶が浮かびあがってくるのが道玄坂小路の台湾料理店「麗郷(れいきょう)」の一角だ。…「麗郷」の脇から百軒店(ひゃっけんだな)や円山町の方へ上っていく階段道は思い出深い。…坂の中腹あたりに「ミウラ&サンズ」というアメカジ少年にとって重要な1軒が存在した。/ミウラは店を始めた三浦という人の名で、息子を表す「サンズ」(SONS)が付くのは上野のアメ横に「ミウラ」という本店があったからだ。後年(80年代頃)の「ミウラ&サンズ」の写真の看板に〈SINCE 1975〉と入っているのが確認できるからオープンはこの年(昭和50年)、そう、先述したリーバイス501とともに「Made in U.S.A. catalog」から人気に火が付いたコンバースのスニーカーを初めて買ったのがこの店。緑色のローカットのタイプ(チャックテイラー)だったが、この年の夏の写真に少し着古した501とともに写りこんでいるから、おそらく開店まもない頃の客の1人と思われる。/せいぜい10畳かそこらの小さな店だったはずだが、そこにコンバースアディダスのスニーカー(ナイキが登場するのはもう少し後)、フライのウエスタンブーツ、リーバイスやリーのコーデュロイジーンズ……など「Made in U.S.A. catalog」で見た憧憬のグッズの実物が革やインディゴの“いい匂い”を漂わせながら陳列されていた。/そう、冬場にケニントンというメーカーのミッキーマウス柄(ミッキーがスキー板を抱えている)のセーターを見つけて買ったのはここではなかったか……。前回、「宝島」誌の読書欄に掲載された「ミッキーマウスTシャツを愛好するワセ女」の投稿文を紹介したが、この年はアメリカ建国200年に絡んで、そのシンボル・キャラクターに採用されたミッキーのグッズが多々発売されたようだ」(泉麻人『昭和50年代東京日記:city boysの時代』平凡社、2023)

 

 この「ミウラ&サンズ」が、その後に銀座のトラッドショップの古株となる「シップス」です。「麗郷」近くには、かつての「恋文横丁」があり、当時は「2軒だけ“米軍から流れてきたような古着”を扱う店が開いていた」とのこと。

 

28p「「恋文横丁」というのは、正確には“恋文代筆屋”(朝鮮戦争に出征した米兵向けのラブレターを代筆する店)のあった1筋を指すもので、この「サカエヤ」や「ミドリヤ」が並ぶ小路は俗に「メリケン横丁」と呼ばれていたらしい。これらの店には、渋いメンドインUSAモノのシャツなんかがある……という情報が伝わってきて(「ポパイ」の記事にもなったが、それより前だったと思う)、「ミウラ&サンズ」の行き帰りに覗くようになった。「ミウラ--」はサーファーっぽい若いお兄ちゃんが店番をしていたが、こちらは終戦直後からずっとやっているような、ポパイ臭のないオッチャンなのが逆に味わい深かった。/そういった本格メリケンなオッチャンがGパンなんか売る場所としては、もう1つ、横須賀が思い浮かぶ。I君という中学時代からの友だちが「さいか屋」の裏に住んでいて、彼によくドブ板通りに連れていってもらった。米軍払下げ直送、みたいなレアな中古ジーンズの山を眺めて興奮したが、コンポラ(ややツッパリ系の人が愛好していたファッション)派の人が好んで切る光沢のある深緑のジャケットやズボンにただ「玉虫」と品札を付けて売っているのがコワかった」

 

 70年代半ば、ベトナム戦争も終わり、西海岸ブームを平凡出版(現マガジンハウス)の編集者などが仕掛け始めた頃の話です。あくまでも明るく、開放的なアメリカ像。

 その横須賀を描いた映画『豚と軍艦』(1961年)や写真集(東松照明『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』写研、1969年)に関して、以前にも一度ふれた著作から引用しておきます。

 

127p「ドブ板通りと安浦周辺を舞台に描かれる『豚と軍艦』の横須賀はとにかく貧しく猥雑だ。EMクラブの立派な建物と、向かい側に張り付く歓楽街の対比が異様な雰囲気を醸出する。主人公春子の姉は「楽だから」とアメリカ兵の「オンリー」になり、年老いた母親は春子にも同様に「アメさんのフレンド」になれと強要するのだが、拒否する春子を「向上心がない」と叱りつける。母子家庭で貧困に苦しむ幼い弟妹たちは「アメリカになりたい」とため息をつく」

85-6p「東松は一九六〇年代に日本各地の米軍基地周辺を撮影して回ったが、その原動力に「欠落感」があったと語っている。

名古屋で僕が住んでいたところの近くに旧日本軍の練兵場があって、そこが米軍に接収されて基地になってね。だから、アメリカ兵が近所をうろうろしているのを身近な風景として見ていました。その基地が、早い時期に返還されたことで、その欠落感がバネになって、他の基地を撮り始めるようになった。

基地が日本に返還されたことで東松が抱いた「欠落感」とはどのような感覚であろうか。欠落は喪失とは別物だ。米軍が去ってはじめて東松の意識にのぼった欠落感の内実は、アメリカ兵士たちに見たそれまでの日本にはない明るさや開放性ではなかろうか」(但馬みほ『アメリカをまなざす娘たち:水村美苗石内都山田詠美における越境と言葉の獲得』小鳥遊書房、2022)

 

 泉が学生時代に感じた「アメリカ=開放感」とは別種の開放性が、1930年生まれの東松照明にもあったのでしょう。十代半ばまでの閉塞感から、占領期の開放感への転換があり、その象徴としての米兵(米軍基地)へのアンビバレントな思い。以下の引用にある「よくも悪くもファッションリーダー」という表現は、言いえて妙という気がします。

(講義関連)アメリカ(32)広告におけるアメリカ/ヨーロッパ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(32)広告におけるアメリカ/ヨーロッパ

 

 阿部卓也『杉浦康平と写植の時代:光学技術と日本語のデザイン』(慶應義塾大学出版会、2023年)は、20世紀の出版・印刷(メディア)文化にとって大きな存在であった(が21世紀には消失した)写真植字――略して「写植」――の日本での展開を追った大著、労作です。今ではまず写植から注釈が必要でしょうが、一般には「金属の鋳造による活字の代わりに、写真と同じく、レンズや印画紙を使って文字を組む技術」と説明されます。さらに「金属の鋳造による活字」に説明が必要でしょうが、昔は「文選工」という言葉があり、文選(ないし採字)とは「原稿に従って活字棚から活字を順に拾い、文選箱に納める」作業を言い、それは熟練工の独壇場でしたが、20世紀の半ばころからは写真植字に、さらにはコンピュータの普及によりDTP(Desk Top Publishing)にとって代わられていきました。

 かつては活字――この場合は狭い意味での活字、活版印刷に用いられる凸状の字型、文字のハンコのようなもの――を一文字一文字拾い、ページごとに組み上げたものをもとに印刷がなされていたわけです。昭和の子供である私は、『路傍の石』(山本有三)で文選工・印刷工の仕事を知りましたし、時々文字が横に寝ている――校正係の目を潜り抜けた誤植がそのまま印刷された――本を見かけたりもしてました。

 前置きが長くなりました。『杉浦康平と写植の時代』の本筋とは関係ないのですが、私には非常に興味深く思えた個所を引いておきます。杉浦康平は1932年生まれのグラフィックデザイナーで、戦後昭和期のデザイン界、とくにエディトリアルデザイン、ブックデザインの領域で大きな足跡を残した人物です。その杉浦が、文字組みやグラフィックデザイン全般のメソッドに関して、参照元としたデザイナーに細谷巌がいます。

 

58-9p「細谷巌は一九三五年生まれで、杉浦より三歳年下のデザイナーである。高校を卒業してすぐの一九五四年から日本で最初の広告専門制作会社であるライトパブリシティ(一九四一年創設)に入社し、五五年と五六年に連続して日宣美の特選を受賞している。このとき細谷は弱冠二〇-二一歳である。

「彼[細谷]の方法を端的に言うと「アメリカの最新流行をいち早く取り入れる」というものでした。それに関して天才的な力量を持っていた。私は建築の勉強しかしてこなかったので、当初はグラフィックの世界の技術や知識を身につけていませんでした。だからどのように処理すれば良いのかということを、細谷巌に教えてもらいやってました。」(杉浦)

細谷が当時参照していたのは、主に『LIFE』、『LOOK』(いずれもグラフ雑誌)、『Esquire』(男性誌)、『McCall’s』(主婦向け雑誌)、『Harper’s BAZZAR』(女性ファッション誌)などのアメリカの雑誌である。この事実は(杉浦と細谷の人間的な交流とは別に)両義的な要素を孕んでいる。杉浦自身は、その後のキャリアにおいては、展開した広告デザインに対してむしろ批判的スタンスで創作をしてきたデザイナーだからだ。

「日本グラフィックデザインの起源は、アメリカの広告の発展と不可分です。亀倉雄策さんなんかは、道端に捨てられていたラッキーストライクの空箱を見て、電気に打たれるようにデザインに目覚めたと言っていますよね。そういう物語がずっとある一方、私には、むしろそれに対する嫌悪感があった。」(杉浦)

そのように「日本人デザイナーの自意識のルーツ」を杉浦が語るとき、「アメリカの広告」という言い方に込められているのは、広告単体の問題でなく、使い捨て中心のアメリカ流の生活様式そのもの、アメリカ流の様式に追従して急速に消費社会化していく戦後の日本社会の様相、アメリカのデザイン手法を模倣して「こなす」ことで成立していた当時の日本のデザイン界の状況など、文化のあり方をめぐる複数の問題意識である」

60p「当時の日本のデザインにおける参照元には、大まかに言えばアメリカの実利的で商業デザイン的な系譜と、ヨーロッパの理念・理論的な社会改善志向のデザインの系譜とがあるが、杉浦の文字組みはヨーロッパ系デザインからも大きな影響を受けている」

 

 多くのデザイナーたちと同様に、アメリカのグラフィックデザイン、広告デザインの圧倒的な影響下にありつつも、バウハウスやロシア構成主義などヨーロッパの伝統にも関心の深かった杉浦は、ドイツ・ウルム造形大学に客員教授として招聘されたこともあって、広告よりもエディトリアルの世界へと進んでいくことになります。

 個人的には、杉浦康平粟津潔戸田ツトム鈴木一誌などにあまり反応しないのですが、『杉浦康平と写植の時代』にて、エド・サンダース『ファミリー:シャロン・テート殺人事件』(草思社、1974年)の装丁が杉浦によるものだと知りました。私は10代の頃、アメリカンニューシネマとこの本から、「アメリカ」を意識し始めました(歪んでいます)。中二病の魂、百まで(踊り忘れず)。

 

 

この前の研究会にて。過渡期ゆえのカオス。

 

今日は打ち合わせからの、会議。

(講義関連)アメリカ(31)kickboxingは何語だろう。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(31)kickboxingは何語だろう。

 

 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男:昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社、2020年)を読んでいて、キック・ボクシングが和製英語ながら、国際的に通用する語であることを知りました。

 Wikipediaでkickboxingと引いてみると、確かに項目があり、詳細な記述があがっています(以下はその一部)。

 

The term itself was introduced in the 1960s as a Japanese anglicism  by Japanese boxing promoter Osamu Noguchi for a hybrid martial art combining Muay Thai and karate which he had introduced in 1958. The term was later also adopted by the American variant. Since there has been a lot of cross-fertilization between these styles, with many practitioners training or competing under the rules of more than one style, the history of the individual styles cannot be seen in isolation from one another.

 

 anglicismはan English word or phrase that is used in another language と辞書にありますから、Japanese anglicismは和製英語を意味するのでしょう。キックボクシングとは、野口修ムエタイと空手の要素を取り入れた武術をそう呼んだことに端を発するということです。

 野口はTBSと組んで、キックボクシングを人気スポーツへと押し上げ、沢村忠というスター選手を生み出しました。すると他局も放ってはおかれず、協同企画(嵐田三郎社長、現キョードー東京)は、日本テレビと組んで中継番組をたちあげます。

 

345p「記事にある「協同企画」とは、戦後すぐ進駐軍専用グラブで通訳をしていた、永島達司が起業した音楽興行会社である。/GI向けにジャズミュージシャンを斡旋していた永島は、コンサートの開催に活路を見出し、ナット・キング・コールベンチャーズスプリームスルイ・アームストロングなどの海外の有名ミュージシャンを招聘。二年前にはビートルズの日本公演を成功させていた。現在の社名は、株式会社キョードー東京である。/協同企画が音楽の次に目をつけたのが、スポーツイベントだった。/記事にあるように、アメリカの西海岸で流行していたローラーゲームを日本に紹介し、この年の四月から東京12チャンネル(現・テレビ東京)でレギュラー放映を行っていた。/そこで、スポーツ部門の責任者である嵐田三郎が次に狙いを定めたのが、TBSで放映の始まったキックボクシングだった」(細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』)

 

 協同企画が音楽部門に加え、スポーツ部門をたちあげ、まずローラーゲームを手がけました。日本でローラーゲームの試合が放送されたのは、1972~75年。日米対抗で、基本的にヒールは外国勢というあたりは、力道山以来のプロレスのアングルを引きずっていました。今の60歳代には、けっこうローラースケート(インラインになる以前の)経験者は多かったりします。その後1980年代になると、今度はスケートボードアメリカ西海岸から流入してきました。

 細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』から、もう一か所引いておきます。

 

75p「松尾國三という実業家がいた。/少年時代に浪花節の大スター、桃中軒雲右衛門に弟子入りを志願するも、はたせず、まずは旅一座の役者となった。/その後、興行師として身を起こし、日本各地はもとより、朝鮮、満州、上海と渡り歩き、米国本土初の歌舞伎公演も実現される。/興行会社を成功させ、企業経営にも触手を伸ばした松尾は、最盛期には十三のホテルに五つの大劇場、十六のボウリング場、二十四の映画館、五つの大型デパートを経営する。大阪の新歌舞伎座も松尾の経営である。/さらに、本場アメリカのディズニーランドを模した遊園地を、奈良と横浜に開園している。戦後、大阪の千日前に開業した米兵相手の売春宿の名前から採って「ドリームランド」と名付けた」

 

 雅叙園観光社長であった松尾國三と、野口修の父野口進(元拳闘家)との関係性の中で、目黒に野口ジムができたわけです。奈良ドリームランドは、戦後米軍に接収され、1955年に返還された土地を一部利用し、1961年に開園(2006年閉園)。もう少し詳しく調べてみないといけないのですが、ディズニーランドと名乗れず、ドリームランドとなったいきさつに、アルバイトサロン「ユメノクニ」が関わっていたことは確かなようです。

 

大阪歌舞伎座」とアルサロ「ユメノクニ」:南区難波新地四番町・昭和7年(1932)9月に「楽天地」跡地に出来た大劇場で、正面に巨大丸窓を据えた地上7階・地下2階建ビルは、高層建築物が少なかった当時の大阪で異彩を放った。劇場はビルの1~4階部分に設けられ、東京・歌舞伎座を凌ぐ客席数と設備を誇った。その後、翌年には6階にアイススケートリンクが設置され、昭和13年10月、地階に映画館「歌舞伎座地下劇場」が設置された。昭和20年には、6階が改装されて占領軍向けの特殊慰安所(キャバレー「ドリームランド」)となった。このキャバレーは朝鮮戦争勃発時まで営業されたが、その後は「歌舞伎会館」という劇場に転換され、曾我廼家五郎劇と漫才を上演していたが、この劇場は千日デパートに転換後、同デパート6階に開場した演芸場 「千日劇場」に引き継がれ、昭和44年4月に閉館した。http://www1.kcn.ne.jp/~nozaki/kaiinnrepoto/oosakaminamimukasitoima/40sennitimae.pdf

 

 アルバイトサロン、略してアルサロ。ドイツ語とフランス語を混ぜた、関西のある年齢以上の人に伝わるであろう、和製のなんちゃって外来語です。

 

 

今日は会議など。

(講義関連)アメリカ(30)結局「アメリカ」とは何なのか

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(30)結局「アメリカ」とは何なのか

 

 1stシーズンの最後にまとめとして、そもそも「アメリカとは」を問うておきます。
 20世紀、アメリカは物質的な繁栄の象徴でした。

 

287-8p「一八〇〇年頃のイギリスの世界制覇が、第一次産業革命の賜物だったように、一九〇〇年頃に際立ち始めた合衆国の世界制覇は第二次産業革命の結果として生じたのである。/この頃、ヨーロッパがアメリカについて抱くイメージが決定的に変化した。インディアン、森の人、野生の自然、旧世界からの逃亡者や移住者を吸収した広大な空間といったイメージから、摩天楼の図像学、自動車の大群、屠殺場、冷蔵庫、蓄音機、電話、ミシン、掃除機、日々刻々と何千もの製品を吐き出すベルトコンベア、そしてすべてを操作し支配するドルの億万長者へと変わったのだ。一九〇〇年頃には、『革のストッキング』とか『白鯨』などの作品は、古いアメリカを描く「ノスタルジー文学」となっていた。高く評価され、また多く読まれたのはアプトン・シンクレアの産業小説だった。この新世界は、同時にまたヨーロッパの著書によってもとりあげられて、多くの読者を獲得した。そして、これらの著書や評論のタイトル――『アメリカのエネルギー』『アメリカの挑戦』『世界強国アメリカ』『危険なアメリカ』『アメリカの未来』など――は、アメリカの脅威を如実に物語っていた。さらには、「アメリカ化」「アメリカニズム」といった新語が日常語の一部となり始めた頃には、「アメリカ」という語はたんに国を表す語であることをやめて、物質的、ニューリッチ、未洗練、悪趣味、アンバランス、といった否定的な意味に使われることが多くなっていった」(ヴォルフガング・シヴェルブシュ『敗北の文化:敗戦トラウマ・回復・再生』法政大学出版局、2007)

 

 資本主義を批判する側からのアメリカ論として。

 

107p「こんにち、アメリカ商標のもとで普及している「新しい文化」および「新しい生活様式」を構成する諸分子は、ちょうど手探りの最初の試みでしかないのであり、それらはまだ形成されていない新しい制度から生まれた「秩序」によるのではなくて、形成されつつある新しい制度と作戦行動(いまだ破壊的で解体的な)から社会的にはじき出されたと感じ始めている諸分子の表面的でサルのようなイニシアチブによるものである。こんにち「アメリカニズム」と呼ばれているものは、大部分が形成されるはずの新しい秩序によってまさに押しつぶされるであろう古い諸階層、すでに社会的パニック、解体、絶望の波に襲われている古い諸階層による予防的批判であり、再建能力がなく変革の否定的側面だけに訴える者の無意識の反動の試みである。再建を期待できるのは、新しい秩序から「断罪された」社会諸集団ではなくて、外部からの押付けにしろ、また自らの忍耐力によるにしろ、この新しい秩序の物質的基盤をつくりだしつつある社会諸集団である。言い換えれば、後者の社会諸集団は、こんにちでは「必然」であるものを「自由」へと切り替えるために、アメリカ商標でない「独創的」な生活体系を「発見」しなければならない、ということだ」(東京グラムシ会『獄中ノート』研究会編『アントニア・グラムシ獄中ノート対訳セリエ1 ノート22アメリカニズムとフォーディズム』いりす、2006(原著1934年))

 

 批判する側も、アメリカが強力かつ魅力的な「新しい文化・生活様式」、一つの「生活体系」と認識されていました。こうした知識人たちのアメリカ観と、以下の「アメリカ」という曲の歌詞――これまでしばしば言及してきた「ウェストサイド物語」の劇中歌で、若いプエルトリカンたちのかけあい、作曲はバーンスタイン――は意外と通底していそうです。

 

I like to be in America(あたしはアメリカ暮らしが好き)
Okay by me in America(あたしとしてはアメリカは良い所)
Everything free in America(アメリカでは何だって自由だし)
For a small fee in America(アメリカでは何だって安く済む)
Buying on credit is so nice(クレジットで買い物なんてすごく素敵じゃない)
One look at us and they charge twice(俺たちのナリを見て二倍の値段を吹っかけられる)
I'll have my own washing machine(自分だけの洗濯機を買いましょ)
What will you have, though, to keep clean?(キレイにするものなんかあったっけ?)
Skyscrapers bloom in America(アメリカに聳える摩天楼)
Cadillacs zoom in America(アメリカで唸りをあげるキャデラック)
Industry boom in America(産業大国アメリカ)
Twelve in a room in America(一部屋に12人も詰め込むアメリカ)
Lots of new housing with more space(新しくて大きな家を買いましょう)
Lots of doors slamming in our face(そこかしこで入居拒否される)
I'll get a terrace apartment(テラスハウスを借りましょう)
Better get rid of your accent(まずは訛りを直さなくちゃ)
Life can be bright in America(アメリカでの人生は明るい)
If you can fight in America(辛抱できればの話)
Life is all right in America(アメリカでの暮らしは快適)
If you're all white in America.(肌が白ければの話)
Here you are free and you have pride(ここでなら自由でいられる、自信を持てる)
Long as you stay on your own side(でしゃばらなければの話)

 

 アンビバレントな語り口ですが、やはり20世紀の(白人たちの)アメリカの物質的な繁栄とその魅力は、誰もが否定できないところでしょう。

 

332p「フォルクスワーゲンのモデルとなったのが、T型フォードだった。反ユダヤ主義社で反金融資本主義者だったヘンリー・フォードが、イデオロギー的にナチズムに近かったことは、この場合、あまり関係がなかった。フォルクスワーゲン計画に決定的だったのは、大量生産される自動車という機能だった。つまり、〈サービス〉と〈魂の工場〉の一体化である。「総統(フューラー)の計画と意志と行為」の賜物として大衆に下賜されて、夢実現マシーンであるフォルクスワーゲンは、個人を体制に組み込むプロパガンダのもっとも効果的、かつ――一九四五年以降の成功が示すように――もっとも永続的な手段のひとつとなったのである」(ヴォルフガング・シヴェルブシュ前掲書)

 

 そして多様性に富む移民国家アメリカは、とどまることなく流動し続けつつ、つねに再構築を繰り返す、そのアイデンティティ希求の運動こそがアメリカらしさ(Americanness)なのかもしれません。「アメリカーナ」という音楽ジャンルなどは、それを端的に表しているように思います。

 

89-90p「カントリー、ルーツロック、フォーク、ブルーグラスR&B、ブルースなど、アメリカの様々なルーツミュージックスタイルの要素を取り入れた現代の音楽であり、その結果、元になった各ジャンルの純粋な形態とは別の形で存在している。アコースティック楽器がしばしば登場し重要な役割を果たす一方で、アメリカーナではしばしばフルエレクトリックバンドも使用される」(柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす:「再文脈化」の音楽受容史』イースト・プレス、2023)

 

 

  昨日、息子とミュジーカルを観に行く。息子が三浦透子が好き、という経緯だけで、どんな作品か調べずに付き添いでいったが、公民権運動とかベトナム戦争とか、南部の信仰やらが背景にある、そんな話だった(いや、とっても、アメリカ)。三浦透子を、いまだに「鈴木先生の樺山がこんなに大きくなっちゃって」目線で追ってしまう。面白かったのだが、題材が題材なだけに、黄色人種がやるのはちょっときついと思う個所があったり、回想シーンへの切り替えにうまく対応できない箇所があったり。でも、生バンドや映像の使い方など、息子的には勉強になったよう。

 

 

周密『BLと中国』ひつじ書房、2024

(講義関連)アメリカ(29)圧倒的な食文化としてのアメリカ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(29)圧倒的な食文化としてのアメリ

 

 占領期、子供だった人たちの思い出は、つねに空腹と結びついています。1947年日本橋兜町に生まれた山口果林

 

「幼児期の思い出に、アメリカ兵の姿が色濃く焼き付いている。のちに姉から、証券取引所の立会場がGHQに接収されていたことを教えられて納得がいった。戦後生まれのわたしだが、物心ついたころも、アメリカ兵は身近な日常の一部だったのだ。アメリカ兵の制服と帽子、乗っていたジープ。お菓子も貰った」(山口果林『阿部公房とわたし』講談社、2013年、86p)

 

1943年長野に生まれた野上暁は

 

「小学三年生の時だから、一九五二年のことだ。九月二日の日記に、千曲川の河原にアメリカの兵隊が三〇台近くの車を連ねて来て、大きな釜でスコップを使ってご飯をかき回している光景を不思議そうに記している。…すでに、チョコレートやガムをばらまく時代ではなくなっていたからか、そういうことは、全く書かれていない。…米兵が、おもしろがってつきまとう子どもたちの足元に、ねずみ花火を投げつけたりしたのだ。人の家の屋根に投げあげたりもしていて大人たちもひやひやしていたが、だれもとがめだてはできなかった」(野上暁『子供文化の現代史:遊び・メディア・サブカルチャーの本流』大月書店、2015年、76p)。

 

 ミステリー小説の中でもアメリカンなケーキの思い出が、重要なカギとなっていたりします。

 

130p「戦後しばらく経ったころ、深草にはアメリカの進駐軍が駐留してました。今の『龍谷大学』に進駐軍の司令塔があったんやそうです。旧一号館図書館の二階ですわ。留学経験もあって、英語に堪能やった聡子さんは通訳として雇われはりました。そこで出会うた将校さんの家に招かれてホームメードケーキの作り方を教わらはった。最初は自宅でケーキ教室を開いてはったんですが、十年ほど前から、週に三日だけ小さな店をやってはった」(柏井壽『鴨川食堂おかわり』小学館文庫、2015年)

 

 当時の体験談に話を戻すと、もう少し年長の横山ノック(1932年、神戸生まれ)も、ハウスボーイ時代に

 

「テーブルに着き、かじりつこうとすると、ジャロリーがそれを制し、何やら得体の知らないものをぬりつけました。それがバターとシロップだと知ったのは後のことです。/おそるおそる食べて見ると――なんという味、なんという美味さ!! いや美味いなんて言葉はとてもおっつきません。この世のものとは思えないくらいの、まさに天上の極上の食べ物と形容した方がいいでしょう。いやいや、あの味はどんな言葉をもっても表現できません。/とろける甘さ、バターの風味、それに何とも言えないメイプルシロップの味わい――ぼくはこの時初めて「アメリカ」に触れたのです!/終戦以来、アメリカのおびただしい物量、巨大な機械群など、見るものすべてに驚かされてきましたが、正直に言って、この時のパンケーキの衝撃は、それらすべてを上回るものでした」(横山ノック『知事の履歴書:横山ノック一代記』太田出版、1995年、65p)

 

 そういえば同様にハウスボーイの経験のある野坂昭如の「アメリカひじき」(1967年)にて、紅茶の葉をひじきと勘違いする話を書いています。

 食のアメリカ化といえば、まずコカ・コーラ(Coca-colonization)やマクドナルド(McDonaldization)が引き合いに出されますが、同時にそれぞれの現地化(localization)もよく語られるテーマです。

 

429p「中国では、アメリカの帝国主義、資本主義的近代の約束、あるいは単純に風邪を治すための(生の生姜と一緒に煮る)飲み物ベースを意味することもありえる。この飲み物は単一の物質性を持つかもしれないが、何を意味するのかは特定の社会実践におけるその位置づけ(つまり、誰がどこでそれを消費しているのか)に依拠している。アイコン的瓶と独特の文字のデザインは世界的に識別されている事実ではあるが、一方で、コカコーラの国際的な地位を理解するためには、その物質性を超えて、物質性と意味が社会実践によって絡み合い、使用可能になった文化的なものとして扱われなければならないのである。/物質性が変化しうる意味と絡み合う別の例として、クリスマスの世界的成功が挙げられる。公的には無神論の国家である中国で、このキリスト教の祝祭がますます目立つようになってきている」
403p「グローバリゼーションを文化的アメリカ化とするモデルに関する第三の問題は、アメリカ文化を一枚岩的だと想定していることである。より用心深いグローバリゼーションの説明においてさえ、アメリカ文化と呼ばれるなにか単一のものをあきらかにできると想定されている。たとえば、ジョージ・リッツァ(1999)は、「グローバルな多様性を今後も引き続き目にするであろう一方で、そうした文化の多くが、ほとんどが、いやおそらく最終的にはすべてが、アメリカの輸出品に影響されるようになるだろう。アメリカが、事実上すべての人の「第二の文化」になる」(89)と主張している」(ジョン・ストーリー『ポップ・カルチャー批評の理論:現代思想カルチュラル・スタディーズ』小鳥遊書房、2023年)

 

 サンタクロースのイメージの普及が、コカ・コーラの広告図像と深く関連していることはよく語られるところです。また後者の引用の「ジョージ・リッツァ(1999)」は、Ritzer,G.(1999)The McDonaldization Thesis,London: Sage. (『マクドナルド化の世界:そのテーマは何か?』早稲田大学出版部、1999年)。アメリカンな食文化のグローバルな受容とともに、それぞれの地域に応じた変化を扱った本です(たとえば、テリヤキバーガー)。

 中華料理から日本で独特な発展を遂げたとされるラーメンも、

 

61p「日本でラーメンが復活したのは、アジアの同盟国に優先的に小麦の食糧援助を行うというアメリカの戦略的決定の結果だった。…アメリカ産小麦からつくられるラーメンなどの食品は、多くの日本人の飢餓を防ぐ重要な政治的機能を担った。さらに、小麦が到着したのは、日本当局とアメリカの監督者が行う食糧配給制度の機能不全と腐敗に対する抗議運動が頂点に達した、まさにそのときだった。当時、日本の共産主義指導者たちは、政府当局の食糧対策への大衆の不満を、共産党への支援に誘導しようとしていた。アメリカはこれに対して、ことあるごとに輸入小麦を宣伝し、アメリカは飢餓の時代の救済者だというイメージをつくりあげようとした」(ジョージ・ソルト『ラーメンの語られざる歴史:世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた』国書刊行会、2015年)

 

 人間の最も基本的な欲求のレベルでも、アメリカの影は遍在ないし潜在してるように思います。

 

 

 息子から映像専攻の必需品だから買ってとおねだりされたアイテム。

 

大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー』新潮選書、2024

(講義関連)アメリカ(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

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ゼミ卒業生がMAKi名義で登場。ヘッドフォンして歩いてます。

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(28)ヒスパニック、ラティーノ、チカーノ

 

 すでに(22)などでもふれましたが、昔ほどではないにせよ、アメリカと言えば第一義的にWASP(ホワイト・アングロ・サクソンプロテスタント)というイメージがまだまだ強いでしょうが、2060年には人口比で白人43.6%、ヒスパニック28.6%、黒人13.0%、アジア9.1%となるとの予測もあります。https://www.nhk.or.jp/school/syakai/10min_tiri/kyouzai/001601.pdf

 

318p「アメリカは存在しなかった。四世紀にわたる労働、流血、孤独そして恐怖がこの国土をつくったのである。わたしたちがアメリカをつくり、その過程がわたしたちをアメリカ人――あらゆる人種に根ざし、あらゆる色合いをおびて、民族的には一見無秩序な新人種――につくりあげたのである。それからほんのわずかのあいだに、わたしたちは相違点よりはむしろ類似点が多くなったのである。新しい社会――偉大ではないが、「多様のなかの統一」という、偉大さを求めるわたしたちのまさにその欠陥にふさわしい社会――になったのである」
325p「二つの人種的集団が、到着、偏見、受容、そして吸収という型に従わなかった。すでにこの国にいたアメリカン・インディアンと、自分の意志でやってきたのではない黒人である」(スタイベック全集16『チャーリーとの旅 アメリカとアメリカ人』大阪教育図書株式会社、1998年)

 

 この「アメリカとアメリカ人」は1966年に出版されましたが、当時はまだまだヒスパニックへの意識は薄かったと思われます(ヒスパニックという言い方にはスペイン系の意があるので、より広くラテンアメリカ系という意でラティーノが使われることもあります)。

 また、中南米への移民は始まっていたものの、戦前の日本でもなかなかラテンアメリカは意識に上りにくかったようです。

 

212p「日本におけるタンゴブームは、ちょっと込み入った事情がある。そもそも大正一二年、永遠の二枚目ルドルフ・バレンチノの映画『血と砂』に出てきたスパニッシュ・タンゴにシビれて以来、長いこと日本人はタンゴとはスペインの踊りだと思い込んでいた。実際は「アルゼンチンを植民地としていたスペイン風にアレンジされたタンゴ」だったのだが。その後スペインの力が弱まり、アルゼンチンに強力な軍事干渉を始めたフランス・イギリスを経由して、日本にコンチネンタル・タンゴが入ってきたときも、まだタンゴはヨーロッパのものだと思っていた。当時の日本人の国際感覚からすれば、目賀田男爵などごく一部の知識人を除いて、アルゼンチンなどという国のことなど思いもよらなかったのである。当時は「アルゼンチン・タンゴ」という名のフランスのダンスと思われていたのだ」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)

 

 流れが変わったのは、1950年代中頃のマンボブームあたりからでしょうか。でも、「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年、116p)とあるように、アメリカというフィルターのかかったマンボブームだったようです。

 西インド諸島の島々(プエルトリコキューバ、ジャマイカetc.)から、ニューヨークなどへと移民した人々からはサルサなどが広まる一方、メキシコからの移民はロサンゼルスなど西海岸・西部に多く、チカーノとしてのアイデンティティを有しています。Wikipediaのチカーノ文化の項には

 

音楽を中心とした、イーストロサンゼルスやテキサス州のチカーノ文化は特に有名である。低所得層の若者は黒人たちと交流を持ち、近接した文化圏を持つ。カリフォルニア州南部のロサンゼルス、サンディエゴなどではギャングスタとなる者もいる。チカーノ・ギャングスタ(チョロ)の特徴としては、髪を剃り、口髭を伸ばし、サングラスをかけ、さらに所属ギャングの名前やカルチャーなどのタトゥーを入れている者が多い。南カリフォルニアでは自動車産業に従事する者もおり、ローライダーと呼ばれる改造車を好んでいる。ラッパーでは、キッド・フロスト(現:フロスト)が1990年の「ラ・ラーサ」で知られている。また、ロス・ロボスなどのロックは「チカーノ・ロック」と、ティエラやロッキー・パディーヤなどのチカーノ・ソウル/R&Bは「ブラウン・アイド・ソウル」と呼ばれることもある。アメリカ南部のテキサス州を中心としたメキシコ人の音楽全般は、「テハーノ・ミュージック」(テックス・メックス)と呼ばれる。

 

 西海岸にはホットロッドと呼ばれる改造車文化(映画「アメリカングラフィティ」にも登場)がありましたが、それが白人男性文化だったのに対し、ローライダーは有色人種のものでした(少し日本でも流行しました)。音楽で言えば、黒と白だけではなくブラウンもという流れを指して「ヒスパニック・インヴェイジョン」と言ったりもします(大和田俊之『アメリ音楽史ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』講談社選書メチエ、2011年)。また、西海岸のチカーノや黒人のギャングスタイルは、‘Colors’(1988年)や‘ⅯenaceⅡsociety’(1993年)といった映画などを通じて、チーマーに次ぐ不良ファッションとして日本にも伝播します。以下はウーマンラッシュアワー中川パラダイス(1981年、大阪生まれ)の10代の頃の回顧です。 

 

168-9p「…ちょうどその時期に『池袋ウエストゲートパーク』が流行ったんですよね。で、カラーギャングってかっこいいなって思って。
――そういう世代ですよね。
自分たちが一番上の世代になったんで、みんな暴走族やめてカラーギャングやろうって言い出して、地区によって色が決まってるんですよ。僕らは淀川区なんで黄色で。黄色の服を着て悪いことするとかじゃなくて、どっかに集まって朝までしゃべってサヨナラぐらいの感じで…(略)
―― じゃあ、そんなにケンカもしてない。
ないですないです。月に1回、アメ村にカラーギャングが集まる日があったんですよ。いろんな地区の青やら黒やら赤やら白やら黄色が集まって、集まる前はみんな「色違いのヤツ見つけたら全員でボコるぞ」みたいな、気合い十分みたいな感じで行くんですけど、結局何人かと会うと知ってるヤツがいるんですよ。「おう!」ってなって、「あ、知り合いなんや」ってなると結託して、「ほかの色のヤツ見つけたらそいつらボコボコにしようぜ」ってなって、それで次また見つけたら知り合いがいて、最終的にはレインボーみたいになって団体行動するみたいな(笑)」(吉田豪『シン・人間コク宝』コアマガジン、2023年)

 

 ま、これももろもろ屈折したカタチでの、アメリカナイゼーションだと思います。

 

 

 

 この前、実家に行ったときの道中写真。星野リゾート越しのハルカス。以前、

(講義関連)アメリカ(15)恵比寿のアメリカ橋と英連邦軍キャンプ - 60歳からの自分いじり

にて堺話をしたが、高校時代、地元の選挙区でなかなか香ばしい候補がいたことを思い出した。ラジオの政見演説か何かを聞いていた際、関西新空港建設を推進する側として、「騒音公害などを心配される方もおられるようだが、技術の進歩はすさまじい。飛行機が垂直に飛び上がる技術が開発中だそうだ。そうなれば、近隣の騒音などは…」みたいな発言を耳にした。「飛行機が垂直に飛び上がる」はなかなかのパワーワードで、しばらく同級生の間ではやっていたように思う。約半世紀前の記憶。

大阪の池田組 | ミックスジャーナル

大阪5区 - 第34回衆議院議員選挙(衆議院議員総選挙)1976年12月05日投票 | 選挙ドットコム

(講義関連)アメリカ(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(27)DH住宅と生活空間のアメリカ化

 

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 さて、建築に関してですが

 

159-60p「夫婦の性愛化はまた、夫婦の器/ハコ――つまり住空間についての言説にも現れる。西川祐子は、占領期、西山夘三や浜口ミホの日本の住宅理論が「一組の夫婦とその子供たちから成る近代核家族のための容器、という住まいのコンセプト」を明瞭に打ち出したと指摘する。さらに西川は、西山の「寝食分離理論」や浜口の「脱封建性」住宅の呼びかけは、同時期のアメリカ占領軍の住宅(ディペンダントハウジング)のコンセプトと通底していたと述べる。そのコンセプトとは何か。占領軍住宅の建設に従事した日本人建築家・網戸武夫の言に耳を傾けよう。

ファミリーでなければ、ワシントンハイツには入居できないです。そうすると、そこにあるのはアメリカの生活方式です。その生活というのは、短絡的にいえば夫婦単位の生活つまりセックスです。(略)だから女性は家にいても非常にカラフルなものを着て、挑発的で、帰ってきたらいつもキスをするとか、抱き合うとか。そういう二人の行為が営まれる場所としての軍の施設であること、それは歴然としています。

つまり、日本の住宅理論家が戦前に想起し占領期に展開した住空間のコンセプトとは、同時期に占領軍の家族が営んでいたアメリア的家庭生活――「夫婦の寝室」を中心とした生活――と同様、夫婦の性愛の営みを空間的にも囲い込むことも目指すものであった」(木下千花「妻の選択:戦後民主主義的中絶映画の系譜」ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

とあるように、日本に近代的なライフスタイル、家族像をもたらすうえで、米軍住宅はそれなりのインパクトがあったようです。もちろん、戦前から住宅改良運動はいろいろありましたが(内田青蔵『アメリカ屋商品住宅:「洋風住宅」開拓史』住まいの図書館出版局、1987年)、占領・被占領という関係性の中で、アメリカンなライフスタイルはやはり圧倒的だったと思われます。

 先の引用文中に「ディペンダントハウジング」とあるのは、扶養家族との同居といった意味合いで、要するに家族で日本に駐留する世帯に対応する住宅の意です(略してDH)。ワシントンハイツは敷地面積277000坪、総戸数827戸、成増のグラントハイツは600000坪、1260戸の規模で、礼拝堂・劇場・クラブハウス・学校・PX(酒保、売店)・日本人使用人宿舎があり、グラントハイツには野球場もありました(小泉和子編『占領軍住宅の記録(上):日本の生活スタイルの原点となったデペンデントハウス』住まいの図書館出版局、1999年、52p)。また同書38pの「表2 DH建設の地域別(日本、朝鮮)家族数」によれば、総数13561(うち東京5199、横浜2830)と、やはり東京近辺に集中はしつつも、全国で建設が進んだ様子がうかがえます(ちなみに朝鮮では、ソウル、釜山、光州、大邱、大田などで計1582家族)。

 また単に家を建てるだけではなく、米軍ハウスには新たな家具調度、什器・電気機器などが持ち込まれました。

 

225p「「オフリミット」の看板を掲げた金網に囲まれた中に建つDH住宅を直接見ることができた日本人は、当時きわめて少なかった。ただ出入りの業者やメイドなどの日本人を通じて、「アメリカ人の家は暖房が効いてるから冬でも半袖を着ている」「蛇口からお湯が出る」「アメリカはレデイファーストで男も台所に立つ」などといった話が一般に伝わり、衝撃を与えた。またPXから放出される米国製日常雑貨も人々の心をとらえた。/なにしろ普通のアメリカ人の生活を直接目にするというのは、一般の日本時にとっては初めての経験である。しかも、文化的な格差はきわめて大きかったから強烈なカルチャーショックだったのである。このため必死にアメリカ文化を吸収しようとした。四七年には「アメリカに学ぶ生活造型展」が、四八年には「海外生活資料文化展」が開かれて、アメリカのモダンリビングや海外の進んだ量産日用器具が紹介された。/GHQも率先してアメリカ文化の紹介に努めた。小学校の校庭を利用して映画界を催しなどして、進んだアメリカの住宅や台所の紹介を行う一方、農村に対してはGHQ天然資源局が主導して、四七年から農林省を中心に全国的な規模で生活改善運動を展開した。これは竈の改善にみられように農村が主体で、農村に色濃く残っていた封建制度の打破が目的であったが、そこで見せられたアメリカ映画の台所やインテリアに人々は瞠目した。「よくこんな国と戦争しようとなどしたもんだ」と誰もが改めて慨嘆し、なんとかしてあんな生活がしたい、あんな家に住んでみたいと熱望した」小泉和子編『占領軍住宅の記録(下):デペンデントハウスが残した建築・家具・什器』住まいの図書館出版局、1999年)

 

 その後、米軍基地住宅も多様化していったようですが(幸まゆか『基地住宅今昔物語』日本図書刊行会、2000年)、生活様式アメリカナイゼーションの展示場として、DHハウスの住宅群は機能していきました。

 米兵をはじめ戦後来日した膨大な数の人々の住居に関しては、まずは接収、急ぎ改修、さらには新築と進んでいきました。これまで何度か登場した安岡章太郎の小説「ハウスガード」(1953年)では、主人公は接収家屋にて留守番をする仕事にありついています。

 

 

ゼミ卒業生の監督作品。広報室も対応してたくれていたこと、遅ればせながら認識。

 

 今日は町内のお仕事など。

(講義関連)アメリカ(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(26)アメリカン・スポーツの普及と展開

 

 以前、米軍の接収した保養地や娯楽施設ついてふれた(8)にて、ナイル・キニック・スタジアムや米軍内のアメリカンフットボール対抗戦などについてふれました。アメリカン・スポーツとしての野球の、戦後の隆盛に関しては山室寛之『プロ野球復興史:マッカーサーから長嶋4三振まで』(中公新書、2012年)や谷川健司『ベースボールと日本占領』(京都大学学術出版会、2021年)、ボウリングに関しては笹生心太『ボウリングの社会学:〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』(青弓社、2017年)など参照のこととして、ここではアメリカンフットボールについてふれておきます。

 アメリカンフットボールは戦前から日本に入り始め、「ベースボール→野球」ほどには普及しませんでしたが、「鎧球」「米式蹴球」として戦時中もかろうじて命脈を保っていました(ちなみにバスケットボールは籠球、バレーボールはアニメ「ハイキュー!!」でおなじみの排球)。そして敗戦。

 

30Kp「戦争直後にスポーツする余裕などなかったように思われがちだが、終戦とは「スポーツできる日々」の復活でもあった。野球、陸上、サッカーなどあらゆるスポーツが復活に向けて動き始めた。中でも、マッカーサー元帥自身が、戦争中も試合結果をいつも気にしていたと言われるフットボールは、米軍(連合軍)占領下のもと、素早い復興ぶりを見せる。/1945年10月3日、甲子園球場を連合軍(第15軍)が接収する、連合軍関西司令官は、ウイリアム・キーン少将。フットボールファンだった少将は、ただちに甲子園球場を舞台に、部隊対抗のフットボール試合を開催した。そしてこの試合に、戦前の関西の大学フットボール選手―坪井義男(関大)、井床国夫(関学)らを招待した。当時、甲子園球場周辺がイチゴ畑だったことから「ストロベリー・ボウル」と呼ばれたこの米軍の試合をきっかけに、関西の学生フットボールは復活ののろしを挙げる」(川口仁『岡部平太小伝:日本で最初のアメリカンフットボール紹介者――附改訂版関西アメリカンフットボール史』関西アメリカンフットボール協会、2004年)

 

 大学とともに、高校でもアメリカンフットボールは盛り上がりを見せ始めます。

 

32Kp(1946年9月)「大阪軍政部のピーター岡田が、フットボールのボールを持って大阪北摂の2つの中学、池田中学(現大阪府立池田高校)と豊中中学(同豊中高校)を訪れる。そこでタッチフットボールの講習が始まった」

34Kp「実はピーター岡田以外にも、フットボールを中学で広めようという動きは日本の各地の米軍基地であった。関西では奈良(旧制奈良中学、奈良商業)、京都(日吉ヶ丘高校)、さらには山口(山口高校)などでフットボール部が生まれた。北海道の函館中学などでもフットボール部創設の動きがあったらしい。/中でも奈良は、米軍奈良キャンプの日系人・小田野中尉が熱心に指導、自ら奈良中学のグランドにこまめに足を運び、生徒とともにタッチフットボールをプレーした。この時代の奈良中学からは関西の大学フットボールで活躍する選手が多く生まれている。しかし継続した指導者に恵まれず、やがてタッチフットボール部は消えてしまう」(川口前掲書)

 

 阪神間アメリカンフットボールが根付いたのには、阪神間モダニズム(さらにはアメリカニズム)といわれた戦前からの流れがあったからかもしれません。たとえば、前出の「ピーター岡田はのちに米軍を退職し、しばらく箕面、そして宝塚に居住し、貿易関係の仕事を営んでいた。彼の母親で日系1世の秀(ひで)が敬虔なクリスチャンであり、当時、箕面市桜井でバイブルクラス(聖書学習のための家庭集会)を開いていたこともあり、ピーター岡田は北摂地区には縁があった。なお秀は自由メソジスト派のクリスチャンであり、関学高等部部長河辺満甕(かわべみつかめ)の父河辺貞吉から導きを受けている」(川口前掲書、33Kp)。

 一方「京大は沢田久雄が同志社の伊藤の指導を仰ぎながら、なんとか作り上げたチーム。ちなみに沢田の母はエリザベスサンダースホーム創始者として知られる沢田美喜である。海軍兵学校陸軍士官学校出身の選手が多く、激しい闘志を全面に出すチームだった。京都軍政部に所属していたジョン・ピンカーマン特務曹長を監督に迎え、短期間で力強いチームを作り上げた」(川口前掲書、39Kp)。

 こうした大学アメリカンフットボールの復活により、1947年には東西の代表校による甲子園ボウルが行われ、「‘48年1月17日、東京のナイル・キニック・スタジアム(戦前の明治神宮外苑競技場をこう改称していた。現在の国立競技場)で、第1回のライスボウルが行われた。関西と関東のオールスター戦が復活したのだ。ちなみにナイル・キニックとは、第2次大戦で戦死したイリノイ大学のスター選手の名前からつけられたもの」(川口前掲書、40Kp)。

 またこの1948年には、関西学院大学アメリカンフットボール部にとって、「ミスター・ローは神戸の米軍軍属であり、何度か来校してコーチをしてくれたが、対同大戦の11月27日、大型ジープにアメリカ製防具を満載して来、寄贈してくれた。そのときは部員一同、思わず歓声を挙げ、狂喜したものであった」という慶事もありました(米田満編『関西学院大学アメリカンフットボール部50年史』関西学院大学体育会アメリカンフットボール部OB会、1991年、30p)。

 占領期、武道は雌伏を強いられたこともあったようですが、ベースボールなどアメリカン・スポーツは人気を博していきます。そういえば、ワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が、少年たちを集めて野球チームを作ったことが、ジャニーズの発端でした(その後、前回もふれたミュージカル映画ウエスト・サイド物語」をきっかけに、ショービジネスを目ざすこととなるのですが)。

 

先日(といっても4月半ば)、知人のお通夜で箕面聖苑に行った際。
中・高一緒で(一貫校ではない、たしか高校1年が同じクラス)、大学も学部は違うが一緒。
建築学科で修士まで進み、ゼネコン勤務を経て大学教員に転身し、岡山理科大から関西大学に移ったというのを、かなり前の同窓会で聞いた気がする。
関大で定年まで勤めるものだと思っていたのに、癌の進行が思いのほか早くといったことだったらしい。娘さんが一人、うちと同じくらいの年恰好に見えたが…
ご冥福をお祈りします。

 

今日は講義、院ゼミ、会議、Zoom研究会など。

 

真鍋公希『円谷英二の卓越化:特撮の社会学』ナカニシヤ出版、2024