60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

【61年生3】ゲッ、ゲ、ゲ、ゲ、外道、外道

あ、一つ「言いたいこと」を思い出しました。


この春に出た
吉見俊哉・若林幹夫編『東京スタディーズ』紀伊国屋書店
を読んでいて、思ったことです。


この本もいい本なのですが、
若林幹夫「郊外を生きるということ」の
「私の生まれ育った町田市を例にあげるならば…」の件に
ちょっと引っかかってしまいました。
若林さんの言うように、60年代から70年代にかけて
一気に町田は「サラリーマンのベッドタウン」化したのでしょう。
でも、私(大阪下町生まれ、その近郊住宅地育ち)にとって、
町田とは「外道」の街です。


外道というのは、プログレな音に日本語の歌詞、
なんだかよくわからない和装というかオリエンタル・テイストの衣装のリードヴォーカル率いる
ロックバンドです。で、そのファン達は、町田あたりのワーキング・クラスのお兄ちゃんたちで、
「暴走族」というコトバが生まれ、定着する前夜の時期に
バイク乗りまわして、コンサートを追っかけたりしてました。
当時テレビ東京のディレクターだった田原総一郎が、
この集団のドキュメンタリー番組を作ったりもしています。
(昨年出た外道のDVDに付録として収録されていました。
町田署の前でライヴやったりしているので、
のどかな70年代前半の近郊商店街の風景が確認できます)
なぜこの人達への言及がないのだろう…


でも、まぁ、これは私の目から見た偏奇な「町田像」なのでしょう。
(中学生の頃、ラジオで音楽番組ばかりを追いかけていました。
その頃、村八分とか頭脳警察とか四人囃子とか、やたら漢字バンドが多かった印象があります。
どうでもいいけど、町田像と町田町蔵はちょっと似てる)


今、読み返してみると、注記でそのへんは配慮されてました。


しかし、若林幹夫さんは1962年生まれ(ナンシー関と同年生まれ)。
若林少年の視界には、外道(とそのファンダム)は入っていたんでしょうか。


それから、あと1961年生まれといえば、
石橋貴明(ソウル・トンネルズ!)と田原俊彦(一本でもニンジン!)がいました。


…不作です。
マラドーナは「いっこ上」です。